人生のゲーム

高田康成『キケロ ヨーロッパの知的伝統』岩波新書,1999年


この日記のなかで,しばしば「遊び」を話題にしてきた。
実用的なもの・実学的なものだけに目が向きがちな世の風潮への反発なのだと思う。
注意して欲しいことだが,実用的・実学的なものと「遊び」とは,決して対立的なものではない。それらは重なっており,そして,生の根っこの近くにあるのは「遊び」の方なのだ。例えば,ノーベル化学賞を受賞した下村脩氏も,はじめから実用的な価値を第一に求めてクラゲを研究したわけではないだろう。
おもしろい,おもしろうそうだ,と思ったものを,やり続けるしかない。
この「おもしろい」と思える場所を,一昨日(10月29日)は「ゲーム的空間」といった。そして,そこで私たちは「生き生きとした生命を取り戻す」ことができると。
しかし,このような生の実感を求めて,ゲーム的空間だけに生きるようなことを求めるとすれば,それは実に危ういことでもある。
唐突だが,古代ギリシア・ローマの市民は,都市国家ポリスというゲーム空間において名誉獲得ゲームをしていた,といえるような気がする。この名誉獲得の活動は,傲慢(ヒュブリス)や権力濫用と,しばしば区別することが困難でもあった。
現代人ならば,貨幣獲得・資本拡大のゲームを生きている,と言えるかもしれない。そこでは,知恵の発揮を通して他者へのサービス(奉仕)がより効率的に行われることがある一方で,無限に貨幣や資本を求める肥大化した欲望がゲームのルールを勝手に作り替え(自由化),ゲーム空間それ自体の維持を困難にする(金融恐慌)ということもある。
現代のことはひとまず措く。
今日,紹介するキケロは,紀元前一世紀のローマの政治家,哲学者。
ローマは,哲学において見るべきものがなかったというのが定説だが,歴史的にキケロの果たした役割は,非常に大きいものがあった。

「前五一年にローマで公にされた『国家について』は,なかなか好評だったらしい。しかしその後,古代末期の動乱のなかで,多くの古典古代の著作が失われていったことは周知のごとくである。そしてこの書物もその例外ではなかった。・・・ただし幸いにして,最終巻である第六巻の最終部だけは別扱いを受け,西欧中世世界へと受け継がれて,その伝統は連綿と続くことになった。「スキピオの夢」と称される作品がそれである。」(126頁)

この「スキピオの夢」は,四世紀末から五世紀に活躍したマクロビウスによって注釈がほどこされ(『「スキピオの夢」注解』),その後一千年以上にわたって西欧文化に影響を与えることになったという。
さて,その内容はどのようなものか。
スキピオの夢」には二人のスキピオが出て来る。いわゆる小スキピオスキピオ・アエミリアヌス:第三次ポエニ戦争カルタゴを陥落させた軍人,政治家)と,その養祖父である大スキピオスキピオ・アフリカヌス:第二次ポエニ戦争ハンニバルを破った共和政ローマの軍人,政治家)である。「スキピオの夢」は,

小スキピオの夢枕に,養祖父の大スキピオが立ち,はるか宇宙のかなたからわずかな点に過ぎない地球を見やって,この世で国家のために奉仕し精進した魂は死後に永遠至福の世界へ至ることを説くという設定になっている。」(127頁)

国家のための奉仕と死後の永遠至福,この両者の結びつきが興味深い。
人間を,私利私欲のためにではなく国家のために奉仕させるために,国家のための活動を名誉として褒め称えるゲームのルールが設定される。古代ギリシアペリクレスによる戦没者埋葬演説はこのゲームの精神を表現していると考えられる。
しかし,ローマ共和政の擁護者キケロは,「大スキピオ」の口を借りて,現世の名誉を求める生き方を戒める。本書は,次のキケロの言葉を引用する。
キケロの翻訳は,岡道雄・片山英男・久保正彰・中務哲郎編『キケロー選集』全一四巻,岩波書店,によるとのこと。)

「地球の狭小なことをこのように強調して言うそのわけは,このように狭隘なところでは名声が偉大なものになることはありえず,したがってそのようなものを追い求めることは勇者たるものの名に値しないと考えさせるためである。(第六巻二〇章)」(128頁)

現世の名声・名誉は,価値のあるものではない。これは,従来の名誉獲得ゲームのルール変更である。キケロがこのようなゲーム変更の理由をするのは,その詳細について論じる力はないが,当時の共和政末期における政治的混乱の背景があってのことだろう。
しかし,このゲームのルールを変更したら,いったい誰が国家公共のために働くのか。人を国家公共のはたらきへと動機づける,別のゲームの理由が必要になる。
そこで,キケロ大スキピオの口を借りて語るのが,死後の永遠の至福なのである。

「お前が国家を守ることにいっそう熱心となるために,このように心得るがよい。祖国を守り,助け,興隆させた者すべてのために,天界において特定の場所が定められており,そこで彼らは至福の者として永遠の生を享受できる,と。というのは,全世界を支配する最高の神にとって,少なくとも地上で行われることで,法によって結ばれた,国と呼ばれる人間の結合と集合よりもいっそう気に入るものはないからである。(第六巻一三章)」(133頁)

現世の名声か,死後の至福か。現世の名声への集中は,傲慢や権力濫用をもたらすことがある。他方,死後の至福だけを求める生き方も,人間の歴史を振り返り,また現代の社会を翻ってみても,(現世の生命にとって)危険極まりない。
キケロの偉大さは,この両者を結びつけるビジョンにある。
現世の名誉獲得ゲームであれ,あるいは現代の貨幣獲得ゲームであれ,それぞれゲーム的空間を生きるとき人間は,生き生きとした生きがいを感じることができるかもしれない。しかしそれは,現世の秩序を破壊するようなゲームにいつ転じるかしれない。
だからこそ,現世の秩序を維持するようなゲームのルールを考えること,そのために人間が献身するような生き方を探究すること,それは現代においても喫緊の課題ではないだろうか。そのとき,忘れてはならないことがある。
最近たまたまみたテレビ番組のなかで,映画監督の押井守氏が,新作「スカイ・クロラ」を作ったのは,生きるということはつらい,でもそんなにわるいものでもない,そんなことを若い人に伝えたかったから,と言っていた。
「遊び」,あるいはゲームは,人生のつらさからときに抜け出るためのものではあっても,人生のつらさそのものを破壊することはあってはならない,ということではないだろうか。