個人をつくるもの(2)

作田啓一個人主義の運命─近代小説と社会学岩波新書,1981年


「忘恩の近代的個人主義はいかなる運命をたどるのか」などと,昨日は大それたことを書いてしまった。もちろん,近代的個人主義を否定しようなどと思っているのではなく,個人主義の中身(それは決して一つの内容しかないわけではない)と問題性を理解しておくことが,私たちの生のためにそれをよりよく活かす道を開くだろう,と考えているだけのことである。
ところで著者は,この近代18世紀から19世紀にかけての個人主義を,社会学ジンメルにならってまずは二つに分類する。

「G・ジンメル個人主義を二つの類型に分けました。一つは,理性という普遍的な性能の保持者としての個人を尊重する個人主義であって,ジンメルはこれを単一性の個人主義または量的個人主義と呼んでいます。他の一つは,一人びとりの個人がになっているかけがえのない個性を尊重する個人主義であって,ジンメルはこれを唯一性の個人主義または質的個人主義と呼んでいます。前者の個人主義においては,個人は他との類似によってとらえられ,後者の個人主義においては,個人は他との差異によってとらえられています。」(101頁)

思想史をたどれば,量的個人主義啓蒙主義の系譜,質的個人主義は(啓蒙主義を批判する)ロマン主義の系譜につながる。啓蒙主義個人主義は「理性の個人主義」,ロマン主義個人主義は「個性の個人主義」とも言いかえられる。それぞれは,理性の自己実現と,個性の自己実現を目指す。
「理性の自己実現」を目指す量的個人主義(理性の個人主義)は,「あらゆる人間は等質的であり,またその意味で平等」であり,したがって「これらの個人が偶然的な束縛から自由になり,みずからの本質を表現する時,ここに自由で平等な社会が実現」すると考える(105頁)。
他方,「個性の自己実現」を目指す質的個人主義(個性の個人主義)は,「啓蒙主義個人主義のように個人の等質性を仮定しはしない」が,「だれもがそれぞれの個性を実現しやすいような条件を与えられる権利をもっているという意味で,平等を主張する」。そこで,ここでは「さまざまの個性がそれぞれの社会的機能を分担し合うような分業のシステム」として社会が描かれる(105-6頁)。
(このような二つの個人主義が描く社会のイメージは,現代においても,文化をめぐる政治学において喫緊の課題として再生している。)
しかし,20世紀に入るとともに,ジンメルが定式化しなかった新しい個人主義が登場する。

「・・二十世紀においては,理性や個性に代わり,媒介者の介在なしに生じる要求に,あるいは他者をモデルとすることで刺戟される欲望に価値を付与する個人主義の新しい形態があらわれてきます。」(108頁)

理性や個性は,欲求の充足に対してではありえない。理性は,欲求を「他者への配慮や将来への展望を欠いた」ものとみなして,それに批判的となるし,個性は,欲求の「無原則の充足」を個人の調和を破壊するものとみなして,欲求の安易な肯定はしない。
しかし,理性や個性,さらに自律の理念は,近代化の進行とともにはっきりとそのエネルギーを喪失してゆく。

「近代化が進み,公的生活において人々が参加する集団の規模が大きくなり,官僚制化してゆくと,公私の二つの領域において,人々は相互に異質的な要求に直面することを余儀なくされます。死活の重要性をもつ集団から矛盾し合う要求を課せられる時,個人の内部に分裂が起こります。」(113頁)

この矛盾の中で,理性や個性は,当惑を余儀なくされる。自律すること,自己決定することが,困難になる。
そして,このような状況下で,消費社会が成長していく。消費社会とは,生存のためには必要がなくとも,さまざまな刺戟によって絶えず新しい需要を創造する社会である。ここで重要な役割を果たすのが,マス・メディアである。

「マス・メディアは,媒介者との関係を消費者に意識させることによって欲望を作り出してゆきます。この媒介者は,あるいはテレビのコマーシャルに出てくる映画スターやスポーツの選手であったり,あるいはこのコマーシャルで示唆される隣人であったりします。・・消費主体は真の要求を満たすためというよりも,媒介者によって植えつけられた欲望を満たすために行動するのです。」(115頁)

こうして,近代化の進展に伴う社会の複雑化によって,理性の個人主義と個性の個人主義がその優位性を失うとともに,社会的に作り出される欲求の個人主義が登場する。
おもしろいのは,著者がこのような個人主義の移りゆきを,ドストエフスキーの小説に読み取る場面である。『地下室生活者の手記』の中でドストエフスキーは,地下室人に,「自分の利益が何であるかがわかっていても,その利益に反するような,そして時として醜悪でさえあるような行動に出てしまうのが,人間の本性なのだ」と主張させる。この地下室人の「気まぐれの権利」(126頁)の主張は,理性の個人主義に対する,ロマン主義的な個性の個人主義のように見える。しかし,ドストエフスキーは,このようなロマン主義的な個人主義も挫折することを見抜いており,理性的個人主義を批判する地下室人を「媒介者の欲望の奴隷」として描く。

「『地下生活者の手記』は,個人主義はその本性上,理性や個性の価値の信奉にとどまることができず,これらの価値を否定する「気まぐれ」な意志に権利を認めざるをえないところまでゆく,という暗い見通しを語っています。そして,「気まぐれ」な意志に権利を認めない個人主義は,個人の自律を統制する外側からの管理に必ず席を与えることになるのです。それでは,「気まぐれ」な意志に従って生きる人間には,自由があるのでしょうか。そこにもやはり自由はないことを,この作品の第二部が指摘しています。地下室人は自由を媒介者ズヴェルコフに売り渡し,彼の奴隷になってしまうからです。この観察は,個人主義の第三の段階である欲望の個人主義が,媒介者の欲望の摸倣を通じて,社会の管理に同行してゆく必然の洞察を含んでいる,と言ってよいでしょう。」(129頁)

理性や個性の個人主義が,欲望の個人主義へと進んでしまうと,ドストエフスキーは洞察していた。文学者の想像力によって見透されたこの過程は,現代において,ますます現実化している。
著者の強調する媒介者の概念は,このような問題に取り組むための手がかりを提供しようとするものだと思う。欲望の個人主義はたしかに理性や個性という自律の基盤を脆弱にしてしまう。しかしそこでは,自分の欲望がメディアの媒介を通して養われたものであるということに,少なくとも理性や個性の個人主義よりも気づきやすいメリットがある。
このメリットをどう生かしていくかは,個人と社会との関わりを考える上で,今なお重要な論点であるように思う。