「発達障害」の意味すること

松本雅彦高岡健編『発達障害という記号』批評社,2008年


11月23日にジンメルのエセーを紹介したなかで,発達障害についてふれた。
そこに書いたことの一部を引用する。「余談だが,このブログでも取り上げたことのある「発達障害」という概念も・・,もしかすると,資本主義の高度化が人間の規律化をいっそう進めようとしていることの現れではないかと思うことがある。昔ならば,「少し変わった子ども」というので済んでいたものが,現代社会の要求する過剰とも言える規律化のもとで,「障害」として表面化してしまっているだけではないか・・・・・「発達障害」なる概念は社会によって構築されたものにすぎず,実体がないなどと言いたいのではない。「障害」と呼ばれるものの背後には,それと特定される行動の特徴があるのは間違いと思う。しかし,それを「障害」や「症状」と概念化するのは,まずもって社会の側の都合なのではないか,ということを考えてみたかっただけである。」

このような視点がどのような問題領域にふれるのかをみるために(あるいは,上に述べた個人的な感慨がどれだけ通用するものかということを確認するために,さらに言えば,上の記述にある「資本主義の高度化が人間の規律化をいっそう進めようとしている」という不出来な表現の言い換えを探るために),上記の書物から,ぱっと目にとまったところを引用していこうと思う。
なお,本書の編者である松本雅彦氏は,1937年生まれ。京大医学部を卒業後,病院勤務を経て,大学教授,病院院長を歴任し,前・日本精神病理・精神療法学会理事長を務めた。もう一人の編者である高岡健氏は,1953年生まれ。岐阜大学医学部を卒業後,病院勤務を経て,現在,岐阜大学医学部准教授である。
まずは,編者二人も加わった「発達障害概念の再検討」という座談会の発現から。(発言者名を引用の後に記す。)

アスペルガー症候群なり広汎性発達障害というものが,いろいろな形で再提起されている,その社会的な根拠は一体何だろうか・・・アスペルガー症候群なり広汎性発達障害という言葉をメディアでよく目にするのは,ほとんど鑑定事例を通じてなんですね。・・それは本当にアスペルガー症候群という病気そのものの発現なのか,それとも社会的な要請によるものなのか,少なくとも社会的な文脈から析出されたものなのではないのか・・」(13頁)(松本雅彦氏の発言)

「最大のポイントは,自閉症の問題が常に社会政策とペアで出てくるんだという点でした。・・・軽度の発達障害を含めて特別な支援をしようという,文科省の動きがあるということです。こういう発達障害なり,いろんな障害という名前がつく人たちの支援をしようとする動きの裏側には,必ず文科省の動きがあって,常に連動している。・・だから,現象として現れる自閉の問題と,これを診断する診断のレベルと,その診断を受けての社会政策の問題と,これらがいつも三つどもえで動いているという,この仕組みをちゃんと見ないといけない・・」(16-17頁)(村瀬学氏の発言)

「・・お母さんが発達障害を心配して子どもを連れてきて,確かに細かい診断基準に則れば,広汎性発達障害であったりするわけです。しかしお父さんも一緒に来られたら,「こんな子って昔,いくらでもいたじゃないですか」と言われる。「僕自身だってそうだったかもわからないし,何でこの子にこんな診断名がいるんだ」という話になります。ちょっと変わった子が行きづらい学校になっている。例えば,ずっと絵を描いている子に対しても,上手に描けるようにと,指導してしまう。今,グループ学習というのがどこでも当たり前ですけど,共同して何かを学習するという,協調性が問われるような教育の仕方の中で,やっぱりその子たちが浮いているというようなことがあると思うんですね。」(20頁)(田中究氏の発言)

「かつては知的障害を伴っている,そういう意味では重度な人が二次障害を呈してやってくるということが多かったけれども,今回の流行現象においては,二次障害を呈していない段階で,しかも必ずしも知的な水準から言えば,重度とは言えない人がやってくるということですね。この背景には,社会が人々を抱える力が低下しているということがあるんじゃないかというご指摘でした。これは見方を変えて言うと,かつての重化学工業の時代でしたら,それに適応できない人を統合失調症と診断して,はじき出してきたことに相当します。それが,この100年の歴史だったわけです。」(22頁)(高岡健氏の発言)

「では,今の発達障害者支援法を推進している人たちでもいいですし,それから特別支援教育に対して期待せざるを得ない人でもいいわけですけれども,その背景には何があるのでしょうか。私は,日本で言うと一億総中流の遺産がまだ残っていて,これらのミドルクラスの親たちが我が子を何とか第3次産業の社会の中ではじかれないようにしたいという,動機が働いていると思うんですね。これは,いいとか悪いとか価値判断の問題とは別です。これを,昔のような平等な教育がいいんだという形にもどしていくだけでは,問題の解決になりません。かといって,今のやり方を推進していくということになると,ますます苦手を克服するところでしか,子どもは評価されないという方向に動いていくでしょう。どちらもちょっとまずいんじゃないか・・・」(23頁)(高岡健氏の発言)

いずれも,理解しやすい発言であると思う。私としては,普段から感じていた問題を,専門家も同じように感じていることを確認できて,すこしホッとするとともに,この問題を自分の仕事の中でどのように受けとめて,どのような発言と行動へと結びつけることができるのか,を考えさせられた。
本書は,座談会の他に,8つの論考と1つのブック・ガイドを収めている。論考の中から気になった記述をひとつ引用しておく。

「[精神発達の2つの軸である関係発達と認識発達の度合を縦軸と横軸にとって描いた,星雲状に広がる分布図を示した上で]私たちはこの分布図のどこかにいる。・・・
この分布図をみれば,すべては精神発達の連続的分布のうちにあり,互いにつながりあっていて,どこからがどれと線が引けるものではないことがわかるだろう。発達障害の「診断」はそこを無理に切り分ける人工的なものである。発達障害はどれも,肺癌や胃潰瘍がひとつの「臨床単位」であるというようなエンティティでは到底ありえない。それもかかわらず,発達障害の診断名があたかもそれぞれが別個に独立した実体をもつ一個のエンティティであるかに見なされ,その名前(記号)だけが一人歩きしてゆくところに現在の大きな問題が潜んでいる。しかも,ほんとうは線が引けない連続的なもののため,どこで線を引くかは任意で「発達障害」とみなされる範囲はいくらでも拡張しうるのである。実際,拡張の方向に進んでいる。」(54-55頁)(滝川一廣「「発達障害」をどう捉えるか」)

どのように線を引くか(どのようにして「障害」なるものを区切るか)は,社会的な状況や現場にかかわる関係者の力関係などによって決まってくるのだろう。拡張の方向は,「発達障害」を抱えて困っている本人や親に対して支援を与えるという意味ではひとまずよいことだ,と私は思う。ただし,それが隔離や差別と表裏一体のものであるということに,つねに注意が必要だ。
民主的な権力は常に,善人の相貌で力を行使する。しかし,それが権力の行使であるからには,そして権力というものが普遍的にではなく差別的に作用を施すものであるからには,それによって引かれた境界線の意味や合理性について,常に監視を怠ってはならない。ただ,そういう監視の姿勢なるものが,当事者の痛みに対して鈍感であってはならないと思う。