スコレーを生きる

ヨゼフ・ピーパー『余暇と祝祭』稲垣良典訳,講談社学術文庫,1988年[原著,1965年]


師走の忙しさの中で,何のために仕事をしているのだろうか,という思いがしばしば浮かんでくる。すると,昨今の経済状況を考えてみれば仕事があるだけましではないか,という言葉が直ちにわき起こってくる。
就職には苦労したこともあり,その言い分にはうなずく。
ただ,仕事がない(仕事をしていない)ということが,何か人間的にも欠格の烙印のように通用するこの社会にはどうにも違和感を覚える。
仕事がすべて,というような労働観に,何か問題はないのだろうか。

「・・「われわれは余暇をめあてに働くのだ」
・・・この言葉は・・・アリストテレスその人が,かつて実際に言ったことなのです。
・・・[これの]原語を文字通り訳すると「われわれは暇をもつために暇なしである」となります。「暇なし」とはギリシア語では週日(労働日)の仕事そのものを指す言葉で,・・・
面白いのは,ギリシア語では週日のれっきとした「仕事」を指す言葉がなく,ただ「暇なし」(スコレー<暇>と否定を意味するアを結びつけた「アスコリア」)という否定形があるだけだという事実です。ラテン語でもこの点は同じで,業務,仕事を意味するネゴティウム(英語のネゴシエイションはここからきています)は,オティウム(暇)の否定形なのです。
アリストテレスは,右に引用した言葉のほかに『政治学』の中で,「余暇がものごとのかなめであり,すべてはそれを中心に回転している」とものべています。これらの言葉は,当然のことを言っているかのような調子で語られています。どうもそのことから推察すると,「労働のための労働」という現代の格言は,ギリシア人にとってはまったく理解できないしろものではなかろうか,と思われるのです。」(23-24頁)

著者ヨーゼフ・ピーパー(1904年生まれ,哲学,法学,社会学を学び,1946年からミュンスター大学教授として哲学的人間学を担当した)が引いている古代ギリシア人がなんと言っていようと,現代の私たちに関係ない,と思う人も多いだろうと思う。
それならば,現代の私たちに関係のあることと(思われていること)は何だろうか。それを知りたければ,書店に行くのが早いのだろう。積み上げられるビジネス書の多くは,いかにして仕事を上手く成し遂げることができるかの指南書であり,多くの人がそれを自分に関係のあることとして,買い求めている。10月19日でもふれたように,巷間にあふれる自己啓発書は,現代人にとっての教養書なのだろう。
ちなみに,先週の金曜日12日に取り上げた発達障害の世界でも,専門家の関心はいかに就労(“就職”という言葉でないことにショックを受ける親もいる)させるか,である。障害のある子をもつ親の最大の関心は,自分が亡くなった後にわが子がどうやって生きられるか,だから,当然,そこへむけて教育しようとする。
しかし,気になるのは,そうやって将来のために訓練するということが,現在の生活を貧困にしてはいないかということだ。12日の記事の言葉で言えば,「苦手を克服するところでしか,[発達障害の]子どもは評価されない」ということがしばしば起こる。それは,その子のもっている可能性を活かすこととはとても思えない。(こういうからといって,訓練や勉強の可能性や意義を否定しているのではもちろんない。)
子どもの話題はさておき,このような時間感覚と結びついた労働観が形成されるには,それなりの経済事情や歴史的背景があるから,簡単にとり扱える問題ではないだろう。しかし,12日の記事で引用した発言(「ミドルクラスの親たちが我が子を何とか第3次産業の社会の中ではじかれないようにしたいという,動機」)は,親たち自身に対しても当てはまるようにみえて仕方がない。高度なコミュニケーション能力を求められる「第3次産業の社会の中ではじかれないように」するために,みな必死にならざるをえない。問題は,それで私たちは豊かになったのか,という素朴な問いである。

現代社会では労働の概念に非常に大きな比重がおかれていて,人間の活動というよりは人間の存在そのものの全領域を占領しています。また「労働者」という人間像にたいしても非常に高い位置が与えられています。もちろん,私は労働の真実の価値や,労働者の人格としての尊厳を否定するつもりは全然ありません。私が問題にしたいのは,現代社会では労働と(真の意味での)余暇のしめるべき位置がさかさまになっているという事実です。」(27頁)

それでは,真の意味での余暇とは何か。
著者は,現代の労働者の状況を,「第一は活動力が最高度にまで高められている状態,第二は盲目的に苦痛を甘受する態度,そして第三は実益をめざす社会的で機能的な労働への専念,没入」(60頁)と論じた上で,このような労働者からみれば,「余暇は怠惰以外の何物でもないでしょう」と述べる。
しかし,歴史を遡れば,現代人の態度こそ逆さまであった。

「ところが面白いことに,中世文化華やかなりし頃の人生観はこれとまさに逆のことを語っているのです。それによりますと,「余暇の喪失」,つまり「余暇を実践する」能力の喪失がまさしく怠惰と結びついているのだ,というわけです。・・せわしなく働くこと,「労働のための労働」をモットーに休みを知らずに働くことが怠惰のしるしだ,ということになります。」(60-61頁)

「忙しく働きすぎて自己を見失うことが「怠惰」の本来の意味だ」(訳者解説,115頁)というわけだ。
ところで,このようなヨーロッパ中世社会における「怠惰」の捉え方の背後には,キリスト教が控えている。そこでは「「怠惰」とは人間が自分の本来の存在と究極的に一致しないことを意味」(62頁)した。そして,この「怠惰」に対立する態度が,「愛」であった。

「中世の人生観でいわれる「怠惰」(acedia)に対立する概念は,せっせと日々の生業にいそしむ「労働精神」ではありません。むしろ,人間が元気よく自己の本質,世界全体,そして神を肯定し,それらと一致すること,つまり「愛」が「怠惰」の対立概念です。」(64頁)

ヨーロッパも,中世も,キリスト教も,どれも自分には関係ない,と思う人もいるだろう。しかし,そうした地域や時代や宗教の違いを超えて,ただ言葉に耳を傾けてみると,いろいろと考えさせられることがある。
真の余暇は,自由時間とか休憩時間とかではない。それは,愛という精神の状態である,と著者は言う。
著者は,その特質をさまざまな側面から描いているが,私にとって印象深かった記述を一箇所だけ引いておきたい。

「ある鋭い観察者によると,この「目に見えぬ不安」こそ現代の組織化された労働管理社会の特徴を示すものであって,この社会に閉じこめられた人間にとっての逃げ口はないのです。つまり,前に進めば「労働」で行きどまり,後に退いても「失職」で行きづまり,というわけです。
これに対して,「余暇」においては・・次のようなことが起こります。一方では「狭い意味で人間的なもの」への執着をくりかえし断ち切ることによって真実に人間的なものが守られ,救い出されます。そして,このこと,つまり真実に人間的なものの実現は,人間が自分の力をふりしぼることによってではなく,いわば一種の「忘我」の状態において起こるものです。」(75頁)

このように述べる著者は,真の意味での余暇における人間的なものを守るためには,ヒューマニズムでは足らず,「礼拝(Kult)」が必要であるとまでいう。
日本の精神史には,「忘我」や「礼拝」のための文化的資源が数多くある。もちろん,すぐに日本的な伝統など持ち出さなくともよい。著者が語る,愛や忘我,あるいはスコレーやコンテンプラチオ(観想)という言葉の意味を少し考えるだけでも,その意味することの重大さがわかってくる。
労働生産性だけで人間の価値づけがなされるような社会の底には,ニヒリズムが渦巻いている。訳者である稲垣良典氏も解説しているように,著者が射抜こうとしているのはこの問題である。それは,本書が書かれて半世紀近く経とうとしている現在でも変わりなく存在する問題なのである。