働くことの希望

玄田有史『働く過剰 大人のための若者読本』NTT出版,2005年


数年前のことである。大学院ゼミに,社会人経験のある学部の学生が参加してくれた。その学生が,ゼミ終了日の打ち上げのときに,私の不用意な言葉がきっかけだったと思うのだが,いまの大学生の姿について,話をしてくれた。
いまの学生は,大学の教師が思うように,いい加減でも,子どもでもない。彼らは90年代に子ども時代をおくっていて,友達のお父さんが事業に失敗したとか,リストラにあったとか,それでクラスの友達がいつの間にか引っ越していったとか,そういう話を身近に聞いて育った。経済成長するということが自明のことのように感じられた時代に育った大学教師たちとは違って,低成長,マイナス成長の社会のなかでどのように生きて行くかを,彼らは真剣に考えている。家計の事情でアルバイトをしながら必死に勉強している人も多い。そうやって働きながら勉強して,疲れているところを,必死に朝おきて,授業に出てくる。すると,大学の教師は,遅刻をしたり,悠長な話をしたりしている。授業の準備をろくにしていないことが見え見えのこともある。それなのに,学生の出来が悪い,などという。大学の教師はおかしいのではないか。あまりに世間のことを,いまの若い人のおかれている状況を,知らなすぎるのではないか・・・
もちろん,みんながみんなそのような学生ではないのかもしれない。しかし70年代に子ども時代を過ごした自分と,90年代以降に育ってきた学生とでは,たしかに共通感覚が異なるのだろうと,当たり前のことに気づかされた。
つい最近,研究室を訪れた学生と会話をしているなかで,その学生が大学の研究をしているということもあって,最近の学生に対する教師としての雑ぱくな印象をつい漏らしてしまった。私が知っているAO入試を通して入って来る学生たちは,とても反応がいい。でも時代に対して反応しすぎているような気がする,と。
思うに,青年が時代に敏感に反応することには,それなりの背景と意味があるのだと思う。もちろん,逆にそういうした反応を示さないことにも。私にはその意味がよくわからないのだが,ここ数回の日記でふれている,現代の過剰とも言えるコミュニケーションに対する要求が,こうした学生の両極的態度の背景にあるような気がする。

「即戦力志向,個性重視,コミュニケーション能力に過重労働など,現代社会では大人がつくり出した過剰なプレッシャーによって,若者たちが翻弄され続けている。背後には日本社会を覆いつつある階層問題もしのび寄る。それらの要素が複合しながら,働くことに疲弊しきった若者と,働けない自分に絶望する若者たちの二極化が生まれている。」(ii-iii頁)

前置きに書いた文章と直接にはつながらないかもしれないが,若者に個性重視やコミュニケーション能力の要請を期待する社会の態度を「過剰なプレッシャー」と記すこの文章を読んで,この本を買った。今の学生たちの多くは社会からのプレッシャーに誠実に向かい合っている。しかし,このプレッシャーはやはり過剰なのだ。
ところで,この過剰はどのようなところから出てきたのか。

「一九九〇年代以降,経済でも,教育でも,そして日常生活でも,「これからは自分自身による主体的なキャリア形成が必要だ」「個性的でなければならない」「自分らしく生きなければ不幸だ」といった大合唱がこぞって続けられた。個性重視や個人の選択による自己責任を当然とする風潮のなか,たしかにそんな潮流にうまく乗って努力を続けられる人もいる。しかしその一方で,「そんなこといわれても自分にはもうムリだ」と感じてしまい,立ち尽くす若者もけっして少数ではない。個を重視する風潮のなか,現代では相当多くの若者が,個性や自己責任を要求する社会の雰囲気に疲れきってしまっている。」(34頁)

ところが,こうした若者の実態を知らず,フリーターの若者は自由で気ままな生活をしている,などと思っている人はなお多いように思う。しかし,実態はどうなのか。

「おそらく団塊とその前後の世代は,日本の労働者史上,長期雇用とそのもとでの年功賃金の恩恵を一番に受けた世代であり,そして最後の世代になるだろう。反対に,若い世代ほど天職を厭わなくなったというよりも,長期雇用そのものが,戦後の日本の高度成長とその後の低成長によって一時的に生み出された現象と考える方が妥当なのだ。
若い世代が安定的な就業を意味する長期雇用に関心を失ったというわけではない。若者の価値観が多様化し,安定的な正社員としての働き方に興味を失った結果がフリーターの増加につながったと考える人もいるが,事実はそうではない。
ふたたび就業構造基本調査に戻ると,そこでは転職を希望する人にその希望する理由をたずねている。その項目を用いて,「正社員として雇われたい」ために転職を希望する割合を求めたのが,図2−4である。
この図をみると,正社員になりたくて転職を希望している割合が,一九七九年から増加していることが見て取れる。正社員の希望の傾向は,実のところ,若者のあいだできわめて強い。・・若者の正社員へのこだわりは弱まるどころか,むしろ強まっているのが実際なのだ。」(56頁)

正社員として働きたいのにもかかわらず,フリーターなどの非正社員として働かざるをえないのは,言うまでもなく,正社員ポストが削られてきたからだ。必要な対策は社会的現実に見合った雇用政策であり,具体的には人材育成に重きを置く企業への支援等である。
ところが,実際に社会的に広まっているのは,このような社会を生きるための実践的な心術である。そういうものは,例えば村上龍13歳のハローワーク』や森永卓郎『真版・年収300万円時代を生き抜く経済学』などに説かれている。これらの本の基本的なメッセージは,好きなことを見つけて生きて行こう,好きなことをするのが,一番の幸せだから,というものだ。
このようなメッセージは,たしかに有用なこともあるのだろうが(特に能力や機会に恵まれている人には),他方では社会の非合理な実態を受け入れさせるだけの話ともなりかねない。そして最後には,自分はもうダメだという意識へと導くおそれもある。

「安定やお金にこだわるのではなく,自分が好きで好きでたまらないことこそ,仕事にすべきだというメッセージは,一方では早く自分がやりたいことを「みつけなければいけない」と理解されていった面もある。・・・・
だが,自分にあった仕事を,働く以前の段階で的確に見つけるのは難しい。仮にみつかったとしても,その仕事に実際に就くことができるかどうかは,また別の問題である。むしろ早くやりたいことを見つけなければ充実した人生が送れないのだといった雰囲気が社会全体に広がることは,かえって自分のやりたいことがみつからない若者へのプレッシャーを強め,働くことへの恐怖心を植えつけてしまうことにもなりかねない。・・」(98-99頁)

将来の希望に頑なであればあるほど,プレッシャーはますます大きくなる。もちろん,そうしたプレッシャーを乗り超えられる人,それを活かして大きくなる人もいるだろう。しかし,この雇用状況のなかで,すべての人にそれを期待するというのは,非現実的なことだ。社会の問題を,個人の意識の次元で解決させようとする,こんな社会は,たけ槍で敵に向かわせようとしたかつての社会と,何が違うのだろうか,とも思う。
好きなことをやることが大切だ,そういうものの言い方は,媒介なき個人主義(12月9日,10日を参照)の行き着いた先,のような気がする。そしてそれが,戦前の臣民教育とは全く違う方法で,しかし同じように,社会的神話(個人と世界との関係に関する,証明不可能の第一定理のようなもの)とでもいうべきものに人々の意識を縛っているとすれば,それは全く皮肉なことだと思う。
しかし,私たちの意識が究極的に脱神話化するとも思えない。したがって,大切なことは,サバイバルのための方法を知っておくということだと思う。神話的な信条(例えば,「好きなことをすることが最善の幸福」)それ自体の可否は問わない。その信条をもちつつ,しかも希望通りには活きにくい世の中で,どうやって生き残っていけばいいのか。

「希望の多くは実現しない。その意味では希望は,多くの人にとって失望に終わる。だからこそ,希望が叶わないとわかってしまえば,その希望が強固であればあるほど,その挫折も大きいだろう。失望や挫折を避けたいと強く思うのであれば,そもそも希望を持たないという選択も考えられる。
しかし,希望を持ってその後に断念を経験することで,はじめて実感する自分と社会との関係もある。今まで自分が望んできたことが,自分の実力からは困難だと感じた場合,それ相応のショックは受けながらも,挫折経験を基点として調整や軌道修正を行っていくこともできるのだ。
・・・・希望は,実現することだけに意味があるのではなく,むしろ希望が創りだす修正や調整のプロセスにこそ意味があるのだ。」(114頁)

私たちの社会は,この修正や調整を行うための社会的基盤をだいぶ破壊してきてしまった。しかし,破壊され尽くしているわけではないし,新しくそれをつくり出そうとする動きもある。次回は,そうした事例の一つを紹介したい。