反貧困

湯浅誠『反貧困 「すべり台社会」からの脱出』岩波新書,2008年


この日記は,できるだけ著作の言葉そのものにふれて,興味を持った本があれば,実際に手にとって読んでもらえたら,と思ってはじめたものです。
ただ,引用だけにすると,問題が生じる可能性もあるので,前後に私の言葉を配置することにしました。でも,大きな誤解をしていたりや不適当なガイドになっているかもしれません。そうすることをできるだけ避けるためにも,自分の言葉は最小限に,と思っているのですが,どうも最近は言葉が過剰になっていると感じています。そもそも言葉自体が人間にとって過剰なものかもしれませんが,それはさておき・・・


本年度の大佛次郎賞を受賞した本書はすでに知っている人も多いことと思う。
奥付にある著者紹介によると,著者は,反貧困ネットワーク事務局長をつとめ,『本当に困った人のための生活保護申請マニュアル』(同文舘出版)などの著書がある。
本書の中には,様々な具体的な貧困の事例が書かれている。それらは,実際に書物をとって確認してもらいたい。ここでは,これらの事例の背景にある事実や観念のごく一部を紹介したい。

「一九九〇年代の長期不況の中で,企業による労働者の非正規化が徐々に進行していった。当時の経団連が「新時代の「日本的経営」」(一九九五年)で,労働者を「長期蓄積能力活用型」「高度専門能力活用型」「雇用柔軟型」に三分類し,一部の主力正社員以外は派遣や請負による非正規でまかない,それによって人件費を軽減して企業業績を好転させようと提唱した。その後,事態はその提言どおりに進行した。」(23頁)

国家や組織全体の舵取りはたいへん難しい仕事だ。これらの提言を考え出した人は,日本全体が沈没しかねないという危機感から処方箋を考え出したのだろう。そうした立場で仕事をする人も,実にたいへんなことをしているのだ,と思う。
しかし,全体を救うという大義名分は,しばしば何か別のものを守るものでしかないことが多い。働いても生活が成り立たないような雇用形態を作ることで,何を守ろうとしたのか。そして,それはそもそも“私たち”を本当に救ったことになったのか。

「たとえば失業給付。企業が非正規化を進めてきたのは,コスト削減のためだ。正規社員に比べて簡単に雇い止めできるし,雇用保険・健康保険等にも加入させなくていい。法律上は,たとえ非正規であっても,一定の要件を満たしている場合には雇用保険・健康保険等の加入義務が生じるが,実際には少なからぬ非正規労働者がフルタイムが働いているにもかかわらず,加入しない会社がたくさんある。」(25頁)

こうしたことによって社会保険のネットが破れていく。この社会の破れに対して,公的な救済制度として設けられている生活保護制度である。

「実際に生活保護基準以下で暮らす人たちのうち,どれだけの人たちが生活保護を受けているのかを示す指標に「捕捉率」がある。政府は捕捉率調査を拒否しているが,学者の調査では,日本の捕捉率をおおむね一五〜二〇%程度とされている。・・・
この背景には様々な要因があるが,「どんなに生活が苦しくても,生活保護など受けたくない」という制度そのものに対するマイナスイメージが根強いことと並んで,自治体窓口で申請させずに追い返す「水際作戦」が全国で横行していることが大きな要因としてある。」(28-29頁)

生活保護というと,すぐに「必要のない人が受けている」「不正受給者がいる」と言われることがあるが,生活保護の不正受給件数は二〇〇六年度で一万四六六九件である。必要のない人に支給されることを「濫給(らんきゅう)」と言い,本当に必要な人に行き渡らないことを「漏給(ろうきゅう)」と言うが,一万四六六九件の濫給問題と六〇〇万〜八五〇万人の漏給問題と,どちらが問題の性質として深刻か,見極める必要があると思う。」(30頁)

雇用,社会保険,公的扶助の三層のネットに穴があいている。しかも,一つ目(雇用)のネットの穴(つまり非正規雇用)にはまってしまうと,二つ目(社会保険),三つ目(公的補助)でも同じようにネットの穴をくぐり抜けてしまう。このように,「一度雇用のネットからこぼれ落ちたが最後,どこにも引っかかることなく,どん底まで落ち込んでしまう」日本社会を,著者は「すべり台社会」(32-33頁)とよぶ。
「すべり台社会」は,最も身近な社会である家族を苦境に追いつめている。例えば,児童虐待
著者は,児童福祉司の山野良一氏の文章を引用している。

「「僕[山野]は,児童虐待があるとされた家族と出会い,彼らのこれまでの生活史を聞く度に,経済的なことを主とした生活上の苦労を経てきた家族が,あまりに多いことに気づかされてきた。彼らは本当に苦労しているのだ。語りきれない過去を背負いながら,現在もその苦労を継続しながら生きている」」(48-49頁,上野加代子編著『児童虐待のポリティクス─「こころ」の問題から「社会」の問題へ』明石書店,二〇〇六年,からの引用)

児童虐待する親をゆるせないという憤りを感じるひとも多いだろうが,だからと言って,親を処罰すれば問題が解決するわけではない。

「山野・ペルトン両氏は,「あの人たちは受けるに値しない」と親たちを福祉サービスから排除することによって,誰にとっても望ましくない結果を招いている事態を嘆く。子を奪われた親が傷つき,親と引き離された子が心に傷を負うだけではない。社会的なコストとしても,「生活保護で親子が生活するとき(親子二人なら大都市部である一級地の一の基準額で一八万円弱)以上の税金が,子ども一人のみの施設生活(大都市部では少なく見積もっても二〇万円弱)にかかってしまうという経済的な非効率さ」(山野)がある。」(51頁)(引用は上述の著作から)

セーフティ・ネットの資源を切り上げて,個人にしわ寄せを行ってきた背景には,九〇年代の不況があり,グローバル的な企業間・国家間競争の激化がある。しかし問題は,このような課題に対処するための構想として,本当にそのようなものしかありえなかったのか,ということである。
しわ寄せを受ける個人の生活条件の改善を支援すること,これが一つのやり方だと思う。ところが実際の政策は「そうした支援をするお金は出せませんから,そうならないように頑張ってくれる人を応援します」というものだ。しかしこれでは,問題の改善にならないし,その問題が全体にとっての負担をますます大きくしてしまう。必要なのは,「がんばる人を応援します」ではなく,誰もが「がんばれる」ようにするための条件を整備することだ。
ところが,誰もががんばるための条件整備を押しとどめる社会的観念がある。「自己責任論」である。「ネットカフェ難民」の自己責任論を,著者は次のようにまとめている。

「(1)ネットカフェで暮らすようになる前に,他にアパートを維持する選択肢があったはずだ(もっと安定した仕事に就く,親に頼るなど),(2)「ネットカフェ難民」は,あえてそれを選択しなかった,(3)本人が弱くていい加減で,安易に「泊まれるから」と流れていった(自己管理ができていない)からだ,(4)それは本人の責任である。(5)お金が貯まらない,生活が大変だと不満を言うのは御門違いであり,社会が甘やかしているからだ」(73頁)

しかし,この議論の前提は誤っている。(1)(2)の選択肢が成り立たないからだ。貧困とは「選択肢自体が奪われていき,自由な選択ができなくなる状態」(74頁)なのである。
必要なのは,「すべり台社会」に「歯止め」を用意すること。それぞれの生活条件の相違に配慮しした「溜め」をつくること,である。そしてそれは「市民」による「社会」への働きかけとしてまずはスタートするほかはない。

「・・個々の活動とは「小さい」話であり,政策とは「大きい」話である。小さい話をしていても仕方なく,大きなところでどうするかを考えなければならない,と[考える読者もいるかもしれない]。しかし,大きな話を引き寄せるのは,個々の小さな活動である。そして,そこからしか見えてこないものもある。制度をどう変えるのかという視点も,現存制度の中でぎりぎり格闘するところから出てくる場合も少なくない。」(110頁)

本書には,社会の問題を考えるための様々なキーワードが記されている。私が一番心惹かれたのは,「市民」や「社会」などの基本的な言葉に,自らの実践のための理論的表現を見いだそうとする著者の姿勢である。そのような言葉自体に意味があるのではない。そうした言葉を手がかりに社会との関わり方を考えるところに意味があるのだ。
「人間」という言葉は現代の哲学や社会理論では人気のないものの一つだが,筆者が次のように語るとき,この言葉のもつ意味を考えずにはいられない。

「貧困が大量に生み出される社会は弱い。どれだけ大規模な軍事力を持っていようとも,どれだけ高いGDPを誇っていようとも,決定的に弱い。そのような社会では,人間が人間らしく再生産されていかないからである。だれも,弱い者イジメをする子どもを「強い子」とは思わないだろう。
人間を再生産できない社会に「持続可能性」はない。私たちは,誰に対しても人間らしい労働と生活を保障できる,「強い社会」を目指すべきである。」(209頁)