内発的発展論

鶴見和子「最終講義 内発的発展の三つの事例」ほか,『鶴見和子曼荼羅IX 内発的発展論によるパラダイム転換』藤原書店,1999年


昨日に続いて鶴見(敬称略)の「内発的発展論」を紹介する。
鶴見の「内発的発展論」は,「近代化論」に対するアンチテーゼである。

「西欧をモデルとした近代化のパラダイムは,「通常科学」,あるいは「支配的パラダイム」とよぶことができます。そして,内発的発展論は支配的パラダイムに対する「対抗モデル」の一つということができます。どういう点で違っているかと申しますと,たとえば近代化論は単系発展モデルですが,内発的発展は複数モデルです。近代化論は国家,全体社会を単位として考えていますが,それに対して内発的発展は私たちが暮らしいる具体的な地域という小さい単位の場から,地球的規模の大問題をとく手がかりを探していこうという試みです。
私は内発的発展を,「それぞれの地域の生態系に適合し,地域の住民の生活の基本的必要と地域の文化の伝統に根ざして,地域の住民の協力によって,発展の方向と筋道をつくりだしていくという創造的な事業」と特徴づけたいと思います。
近代化と違うもう一つ大事な点は,近代化の最も大事な指標が経済成長であるのに対し,内発的発展論が人間の成長(human development)を究極の目標としている点です。それぞれの人がもって生まれた可能性を十分に発揮できるような条件を創っていくという,人間の成長に重きを置いているのです。」(「最終講義 内発的発展の三つの事例」32頁)

「地域の住民」と国家との関係,とりわけ地域と国際との関係をどのように考えればいいのか,また,「人間の成長」とは何か,疑問はいろいろとわいてくるが,しかし,重要な論点の提示であると思う。
内発的発展論は,普遍的で抽象的な理論ではなく,具体的で類型的な理論として展開される。それは,地域のあり方がそれぞれ異なっており,したがって地域の発展のあり方も一様ではあり得ないからである。
共通するのは,地域発展の土台となるのが伝統の「型」である,ということ。たとえば,水俣の事例。

水俣地域再生の目標を患者さんたちは,「もうひとつのこの世を」というふうに言っています。この考え方はキリスト教に近いです。The Kingdom of Heaven on this earth(「この地上に天国を」)。そういう話なのです。「もうひとつのこの世」とは,自然と人間が一体となって,そのなかで人間が生きていた,生かされていた,そういう状態です。そういうところに,非常に強いアニミズムの信仰が生きていることに気がつきました。」(「最終講義 内発的発展の三つの事例」42頁)

水俣の実地調査した上での発言である。「自然と人間が一体となって,そのなかで人間が生きていた」——そういう想念の型が,地域再生の運動を動かしているという。
厳しい人は,こうした言葉は「むかしはよかった」という類のいつの時代にもみられる繰り言にしかすぎない,というかもしれない。そういう「自然と人間の一体性」などは,単なる神話なのだ,と。
けれども,なぜそうした繰り言を人間が繰り返すのか——私は,『苦海浄土』(石牟礼道子)の「ゆき女きき書」の章にある「舟の上はほんによかった」という言葉を思い出した——ということを考えることは,それなりに意味のあることだと思う。
正しい,正しくないに関係なく,多くの人に共感的に理解されるものと,そうでないものがある。これは,いわば感情の型とでも言うべきもので,この型に沿った言葉は,論理的には無意味なようであっても,あたかも挨拶のように繰り返されることによって,生活の実質を形態化する。
(「いい天気ですね」「そうですね」という挨拶においては,その言葉の字義そのもののやりとりとしてはほとんど意味がない。しかし,そういう(ある意味で無意味な)言葉のやりとりによって,挨拶をする両人の人間関係が生じる。)
人間と自然の一体化に関わる想念(それを鶴見は「アニミズム」とよぶ)も,そういう類の感情の型ではないか,と思う。
それ(自然との一体性)は,歴史上どこにもなかったかもしれない。しかし,そういうものを考えることによって,例えば儀礼的行為がなされるなどして,人間の世界が成り立ってきた。そのような水準における人間の生をどのように再建するのかということを,内発的発展論は射程にいれている。
鶴見の内発的発展論はこのために,アニミズム的な感情の型を現代において再生あるいは創造することを通して,人間の生をたてなおそうとする理論である,と読めるように思う。

「ここにあげた[内発的発展の]三事例に共通する第一の条件は,地域内に意識構造または社会構造の伝統が近代以前から蓄積されていることである。後発国の内発的発展を論じるとき,植民地化その他の理由によって,伝統が断絶もしくは著しく変形された場合は,なにをよりどころとして内発性を表出するのか。また新しく開拓された土地に人々が移住して地域を構成する場合,伝統の再創造よりも,伝統の創造を考えなければならないだろう。・・」(「アジアにおける内発的発展の多様な発現形態」194頁)

「伝統」なるものが,近代国家によって発明されたものである,ということを強調する議論が一方にはある。「伝統」という形を通した国家の支配がそこでは問題とされる。しかし,「伝統」が創られないことの悲惨も,他方ではたしかにあるのではないだろうか。人々を一つにまとめる何らかの想念がなく,人々がばらばらになってしまう場合,それは強い勢力によって簡単に支配されてしまうことだろう。もちろん鶴見の議論は,伝統による国家支配などにははじめから距離を置くものだが。
鶴見が期待するのは,国家ではなく,地域である。しかし,先に述べたように,地域と国家との関係,とりわけ地域と国際との関係をどのように考えればよいのか,という問いは,おそらく内発的発展に課される最大の問題だと思う。
国民国家が総体的に機能を低下させているからといって,すぐにそれにかわって,地域が主役となれるわけではないだろう。国際的な関係の影響が地域にもろに反映することを考えれば,地域にとってバッファーとなって作用する国家の機能の重要性はますます増しているともいえる。
しかし,それらの難点にもかかわらず,とりわけ,この世界は誰かがよくしてくれると考えるのではなく,自分には何ができるのだろうかと考えるとき,内発的発展論から学ぶべきものはなお多くあると感じる。