内部の分裂から外部の分裂へ

鶴見和子南方熊楠(みなかたくまぐす)』講談社学術文庫,1981年[原著,1978年]


先週(1月14,15日)に引き続き,鶴見和子の著作より。本書は,昭和54年に毎日出版文化賞を受賞した作品である。

「南方は,その生き方においても,関心の方向においても,学問のあり方においても,また英文と日本文との二つの言語によって自己を表現するという伝達のスタイルにおいても,常に両極分解する二律背反の選択肢を抱きながら,それらを統合するより高次の視点を獲得しようとして,生涯を格闘した。その葛藤の深さ,烈しさが,「縛られた巨人のまなざし」として,現代のわたしたちに衝撃を与えるのである。葛藤は,家族や社会の外的環境だけに因るのではない。かれの内部に,深い分裂の意識があったからこそ,これだけの雄渾な構想をもった学問が生まれたのだと思う。」(25頁)

ひるがえって,専門化された学問の特徴とは,それを行う研究者の中に深い分裂の意識はないということかもしれない。そして,研究者としての比較的安定したアイデンティティと,専門領域のアイデンティティの安定性は,おそらく深く相関しているだろう。
つまり,各々の学問領域の作法や流儀は,多様な問題関心にこたえる形式とはならず,それぞれの固有の問題関心にこたえる形式として安定する。この安定性によって,学者の仕事(とそれに取り組む意識)のアイデンティティは支えられ,他方で,学者の安定的な業績の積み重ねによって,学問領域のアイデンティティも確立されるのである。
しかし,このような安定性が,学問間の分裂や懸隔をいっそう深めているということは,しばしば——隣の研究室で何がされているのかさっぱりわからない,などと——繰り返し語られてきたことでもある。学問の世界においては,個の安定性の強化と,全体の懸隔の深化とは相即する傾向であるようだ。
もっとも,実際には学者も,研究者としての意識のみで生きているわけではなく,何らかの仕方で分裂の意識を抱えており,安定したアイデンティティは仮構に過ぎない,とみるべきだろう。
以上のことは,学問に限定する必要はない。社会の中で仕事をするためには,多かれ少なかれ,このようなアイデンティティの仮構(集団レベルと個人レベルの双方における)が必要なのだから。ところが,しばしば人は,この仮構を実体とみなしてしまい,様々な不自由に陥っているように思われる。
この不自由を自覚するためには,仮構を仮構としておさえつつ,その仮構を超えた実相を見る世界観なり哲学が必要なのではないか。それが,南方においては真言密教であった。

「南方はその学問の目標をつぎのように語った。「幼年より真言宗(自分の)に固著し,常に大日[如来]を念じおり,何とぞ今の日本に存する一向,日蓮等の俗向きのものの外に超出して,天台,真言等の哲学を日本に興隆し,他日世界中の人がわが邦を一のアレキサンドリアとして修学せしむるように致したし・・」。・・・」(208頁)

宗教を奉じるから科学的でない,というわけではない。むしろ反対に南方は,西洋の科学を学ばなければならない,と強く主張する。ただし,近代西洋の自然科学は,密教の世界観の一部として位置づけられるのである。それを説明するのが,1月14日にも取り上げた南方曼荼羅である。アメリ社会学の訓練を受けた鶴見は,これを「モデル」(217頁)とよぶ。

「・・「南方曼荼羅」は,かれの理論体系のモデルであるが,それは抽象的仮説命題の体系をともなわない,絵図(モデル)なのである。それは,その絵図からはみ出したところに,宇宙の全体像が実在するという信念—宗教—に支えられている。モデルが科学的智識の原型を示すとすれば,科学はつねに実在—宗教によってそこにあると信じられる—の一部しか把握することができない。・・」(221頁)

分裂した学問の状況に対して,かなり以前から「学際的」な研究の必要性が唱えられてきた。しかし,真に学際的となるためには,それをささえる哲学なり世界観なりがなくてはならないのだろう。
しかし,こうした必要性がいかに強く認識されても,テーマの一致はあっても内容はばらばらな論を積み重ねるような—自分自身も含めて!—状況が続くとすれば,そこには深い理由もあるのではないだろうか。
それは,内的矛盾の社会的分裂への転化,と言っていいのかもしれない。私たちは,内心に矛盾を抱えこまず,それを外部化することで,心の緊張を緩和する。他方で,社会の側には,こうした内心の問題解決の委託先が用意され,必要に応じた処方が提供される。
そこでは,スピリチュアルはあっても,真言密教までは必要とされない。そういう社会に私たちは生きているのではないだろうか。