市場と幸福(1)

アルバート・O.ハーシュマン『方法としての自己破壊 <現実的可能性>を求めて』(田中秀夫訳)法政大学出版局,2004年[原著,1995年]


最近の日記(1月14,15,22日)でふれている論点(内発的発展真言密教など)から,日本の伝統的な文化に基づいた,地域に根ざした発展を目指すべきだ,ということだけを導き出すとすれば,それはやや偏った議論となってしまうので――取り上げた鶴見さんが偏っているというのではなく,私の取り上げ方から導かれそうな方向性が偏っているということ――,やや違った視点からものを考えるために,上の本を紹介したい。
著者紹介によれば,ハーシュマン(Albert O. Hirschman)は,1915年にベルリンに生まれ,反ナチ活動によってパリに亡命。40年にはアメリカに渡り,開発経済論,組織論,政治・経済思想史などの広い分野で独創的な仕事をした。イェール大学,コロンビア大学ハーバード大学プリンストン大学などで,研究員,教授を歴任した。邦訳としては,法政大学出版局から『情念の政治経済学』『失望と参画の現象学』『反動のレトリック』がある。
さて,本書は1986年以降に書かれた20の論考からなっている。いずれも興味深いものなのだが,ここでは本日記で話題にしてきた論点と関連の深い章を紹介する。
「市場はわたしたちを不幸から守るか,幸福から遠ざけるか」と題された第18章は,Robert E. Lane, The Market Experience, 1991. (ロバート・E. レイン『市場の経験』)の書評論文で,1992年に書かれたものである。
最近もメディアでさまざまに論じられているように,市場というのは完全なものではない。しかし,市場のない世界というのも考えられない。ハーシュマンが取り上げるレインは,「市場という制度がいかにして「諸国民の富」あるいは国民総生産にというよりはむしろ人間の幸福と人格の発展の総計に貢献するかを調べるところから」検討を始め,「認知,自尊心,友情,仕事と仕事の満足,報奨制度,及び最後には幸福それ自体を,これらのはるかにとらえどころのない個人的経験と関係に対する市場の影響」を取り扱う(253頁)。
そもそも,市場の影響については,それを厳しく批判する発言が繰り返されてきた。

「カーライルとマルクスからマルクーゼとフレッド・ハーシュまで,市場はそれ(または貨幣)がすべての人間関係を覆し,さらには社会の倫理的基礎を掘り崩すという理由で激しく批判されてきた。」(253頁)

これに対して,ハーシュマンによれば,レインの市場に対する評価はきわめて公正なものである。たとえば,

「自尊心は伝統に縛られた,階層的社会における伝統的評価によってより,(市場における)経済的達成によっていっそう高められることが証明されている」(254頁)

のだという。
しかし,もちろん市場は完全ではない。
ハーシュマンがレインの独創的な業績と評価する二つの点は,この市場の不完全性に関連する。
まず第一に,

「「本質的な」ものを把握することが市場には出来ないということ―本質的な仕事の満足のような重要なものが市場で行われている計算では正当に扱われない」(254頁)

ことが,市場の失敗の主な理由である。
第二に,

「市場のもう一つの重要な欠点は,金銭的成功が幸福への鍵を握っているという幻影を生み出すその力である。発展した市場経済における幸福の決定因についてのデータの集約の結果,レインが確信したのは,幸福の非貨幣的次元―家族生活と友人,自らの人生を指導し制御したいという感情,自尊心,等々―が「単なる」物質的次元よりはるかに重要だということである。」(255頁)

ハーシュマンは,レインのこの見解をやや丁寧に紹介し,次のような命題にまとめる。

「レインの最強で最も刺激的な命題は,貨幣の「きらめく魅力を招き寄せるのは・・・何よりも報酬の選択である」(p. 554)という根拠に立った市場批判である。「市場社会では市場の外にある何かの代替物を市場で見つけることは容易である」(p. 555)。こうして人々は真に本物の,あるいは「自分に合った(ego-syntonic)」選択から「引き離され」るのである。」(256-7頁)

ハーシュマンは,レインの見解の特徴を示すために,ケインズの次の言葉を引用する。

「危険な人間の性質は金儲けと個人的な富の機会の存在によって,比較的無害な通路に導かれることができる。その性質は,もしこのようにして満たされないとすれば,残酷なこと,個人的な権力と権威の向こう見ずな追求,および他の形態での権勢の増大にはけ口を見いだすかもしれないのである。」(ケインズ『一般理論』からの引用。257頁)

そこでハーシュマンは,レインとケインズの対照を次のようにまとめる。

ケインズ・・・によれば,金儲けは破壊的な権力の追求に取って代わるのであるが,しかしレインにとっては金儲けは人々があらゆる種類の建設的な行為,すなわち,友情の強化から美と真理の追求までの行為に携わることから引き離す。ケインズにとっては,市場はわたしたちを不幸から守る。しかし,レインにとっては,市場はわたしたちを誘惑する,あるいはせいぜいのところ,わたしたちを正道から外れさせる。すなわち,市場はもっと価値ある活動からわたしたちを引き離すのである。」(258頁)

(この論点について詳しくは,ハーシュマン『情念の政治経済学』を参照。)
現在の市場批判の動向を考えるときに,このようなケインズとレインの立場を振り返っておくことは,決して無駄ではないように思う。
市場にできることとできないことをきちんと見分けること。また,市場の有する道徳的な価値というものに注意すること。それらを踏まえて市場を評価することが大切なのだ。
市場は,わたしたちを(ケインズのいうように)「不幸から守る」こともあれば,(レインのいうように)「幸福から遠ざける」こともある。
本日記のこれまでの記述に即していえば,市場は,概して人を機能性に還元するが,それによって人間は――レインが言うように――幸福を失いかねない,あるいは実際に失うのだが,しかし逆に,――ケインズとレインがそれぞれの仕方で語っているように――より悪い不幸から守られたり,承認欲求を満足させられたりするということもある(本日記ではこれまで,この側面はふれてこなかった)。
ハーシュマンは,このように多様に作用する市場のメカニズムを,一般論として語るのではなく,それぞれの市場社会の型の差異に注目して,それぞれの事例に則して観察することが大切だと説いている。
ハーシュマンがこの書評論文を書いたのは1992年のことである。それから日本は,自国の市場経済の特性を認識するために数多くの経験を積んできたはずだが,その経験に即した独自な政策の形がはっきりみえないところに,現在の日本の苦境があらわれているように思う。
市場経済を,より悪い「不幸から守る」ために活用しつつ,市場経済では遠ざけられている「幸福」に別の仕方で近づくこと,この両面への配慮が政策には必要なのだと思う。もちろん,言うは易く行うは難し,なのだが,そのことを考えるためにも,明日もひきつづき本書を取り上げてみたいと思う。