モダニストとしての空海

渡辺照宏宮坂宥勝『沙門空海ちくま学芸文庫、1993年(筑摩叢書版、1967年)
竹内信夫空海入門 弘仁モダニストちくま新書、1997年


ある事情から、空海に関心をもち、幾つか本を買い求めた。
空海に関しては、司馬遼太郎の『空海の風景』しか読んだことがなく、宗教者空海というよりも、かなりの戦略的な思考をもった人間空海としてのイメージをずっともっていた。
非歴史的な宗教的伝説を洗い落とした人間空海の、しかし作家によるあまりに人間くさい空海像とは異なる、宗教者空海としての像を描いた古典が、渡辺照宏宮坂宥勝『沙門空海』(ちくま学芸文庫)である。
空海は大学(律令制下の官僚養成のための儒教中心の教育機関)で主として漢籍を学んでいた。出世するにはこの道を進むべきである。しかし空海は、徐々に仏教に心が傾いていった。それを決定づけたのが、名前の残されていない一沙門との出会いであった。『沙門空海』は、この一沙門を次のように推測する。

「その沙門は、しかし、空海儒教道教よりも仏教が優れていることを説得することのできるほどの仏教学の薀蓄をもっていたにちがいない。つまり、奈良などの諸大寺にいてすでに仏教について相当の学問を学んでいたということである。さらに求聞持法を修しており、そうした法を行ない得る山野の修行地と関係をもった人でなければならない。一口でいえば、律令的・反律令的な二面性をもった仏者、具体的にいえば行基に近い性格をもった者であったことは、まず疑いないであろう。・・こうした律令的、反律令的な二つの性格は、後年の空海にそのまま受けつがれ、また同時代の最澄にも見られるところであるが、ことに、かれが「沙門空海」を晩年高野山にこもるころに自称するようになるのは、まさしく、この知られざる恩師「一沙門」の性格につながるものがあるとみてはならぬだろうか。」(渡辺照宏宮坂宥勝『沙門空海』52頁)

空海が「一沙門」に学び山林修行から出発したことは、やがては「弘法大師」として信仰を集めるようになっていく空海という存在の、いわば徴候である。

「のちの空海が統一した律令的・反律令的な二面性をもった真言密教は、かれの後継者たちの間で再び分裂していった。すなわち、一つは天皇貴族などの権力者に奉仕するグループであり、他は山野に修行して加持祈祷の呪力をもって専ら民衆に奉仕するグループである。」(同、53頁)

弘法大師伝説は、空海の後者の特質から発したものだろう。そして、この後者の特質は、ここで取り上げたい「自然」というテーマにも関わる。

「前述したように青年時代の空海は一介の山岳優婆塞(うばそく)として四国、近畿の山野を跋渉したのであるから、私度僧であったのは相当ながい間であったわけである。いいかえれば、その出発点において、律令的な仏者とはまったく異なった道をたどったのである。ここに沙門空海の自覚はすでに芽ばえていたといえよう。その後、入唐して正式に学んだ密教において、他の一般仏教と比較した場合に何よりもまず著しい相違点として強調されていることは、たんなる教理の学習にとどまるものではなくて修禅観法による真理の神秘直観にある。しかし、密教の修禅観法に適した場所というのは、密教諸経典に説くところによると、人里離れた幽玄閑寂な山野であることを必要とする。思えば、空海最澄の理趣釈経借覧の申し出でを断った一半の理由というのも、密教の真理はいたずらに文字言葉の上にのみ追い求めて得られるものではなく、経典儀軌に説き示されてあるとおりに修法し実践しなければならないということにあったのである。」(同、155-156頁)

つまり、修行のために「人里離れた幽玄閑寂な山野」が求められた。そこで選ばれたのが、高野山であった。
修行は、いわば宇宙神秘の直観のために行うものと言えるだろう。つまり、密教コスモロジーの直観的把握のために修行が必要とされ、そのためには自然山野という場が必要とされたのである。
昨日(7月30日)取り上げた、近代日本の知識人の自然とは大きく異なり、ここには明確なる宗教的コスモロジーとそれに即した行為の体系がある。それを簡潔にまとめれば、次のようになる。

「一切万有は宇宙的な絶対者である法身大日如来を象徴するものであり、世にありとあらゆる仏菩薩、神々はすべて大日如来の顕現であるとする。この原理を図式化したのが、金剛界胎蔵界曼荼羅である。・・・
この大日如来に帰一するための全宗教的行為、すなわち真言密教の実践の様式は、坐禅瞑想して手に印を結び(身密)、口に真言を唱え(口密)、心を本尊と同じさとりの境地に置く(意密)という、こうした三密行にまとめられる。この行法としての三密行は有相の三密といって、いわば宗教的実践であるけれども、それがさらに生活化されて日常の行為として展開すると、無相の三密行となる。空海の社会的文化的活動はすべて無相の三密の実践であったわけである。密教の行法作法はそのままが大日如来の理想の世界を再現するはたらきにほかならないのであるが、そうしたいわゆる宗教的理念型を現実化する行為こそ無相の三密行なのである。」(同、250-251頁)

近代日本の知識人は、苦痛や煩悶のなかから、いわばそこから押し出されるような形で自然に開眼し、救済のイメージを作りあげていった。子規も漱石も統合的な世界観をもちえないモダニストとして、それぞれの生活の断片からかすかなる救済のイメージを編み出していった。
それに対して、空海の溢れんばかりの救済イメージの豊饒さ。
ところで、渡辺照宏宮坂宥勝『沙門空海』のちくま学芸文庫版に解説を書いている竹内信夫は、『空海入門 弘仁モダニスト』において、空海の文化史的意義を「弘仁モダニスト」として描いている。

「後世、いわゆる「国風文化」が高く評価され、日本文化の精髄として理想化されるようになりますと、その前の「弘仁時代」は「国風暗黒」の時代として貶められ、ほとんど無視されるようになります。しかし、それは間違った歴史の見方です。・・・
私は、この「弘仁時代」の文化的様態を「弘仁モダニズム」という言葉で呼びたいと思います。日本の歴史において「古代」に時代区分される平安初期のこの時代を「モダニズム」の名で呼ぶのは時代錯誤も甚だしいと思われる読者は多いかもしれません。しかし、近代の「モダニズム」の文化的諸相を、近代という時代を特権化せずに考察してみれば、そこには「弘仁時代」と共通したいくつかの基本的特徴を見出すことができるはずです。
まず、個性豊かな<個人>が粒だって見えるということ。・・・・
第二には、それらの個性豊かな<個人>によって、それまでとは違った新しい地平がそれぞれの分野で切り開かれたということ。一言でいえば「新しさ」への共通関心があり、それを評価する文化的土壌が存在しているということです。
第三には・・「モダニズム」のもっとも顕著な特徴である国際性(internatinality)、通文化性(interculturality)を挙げておかなければなりません。これはエキゾシズムや、悪く言えば「外国かぶれ」というような現象をも生み出します。しかし、その「外国かぶれ」の背後にうごめいているのは、既存の枠組を超えて越境してゆく好奇心です。」(竹内信夫空海入門 弘仁モダニスト』178-179頁)

竹内によれば、この時代を代表する人物が、空海にほかならない。そして竹内は、空海モダニズムを象徴する言葉として、「斗藪(とそう)」という言葉を挙げて、モダニズムの本質の「自由」が日本伝統の中にも見いだせると主張する。斗藪とは、一切の係累から自らを解放した状態を意味するものであり、「自由」の日本的な伝統の原基にあたるものなのである。
著者が、モダニズムモダニストという言葉を弄んでいるとうけとることはできない。著者・竹内信夫は、もともとフランス象徴派の代表的詩人マラルメを専門とし、モダニズムには深く精通した学者である。彼は、モダニズムの核心をある種の精神の自由としてとらえ、それを空海の中に見出したのだ。
その竹内が、本書の中で「高野」という場を強調しているのは興味ぶかい。

「もっとも注意すべきところは、高野山が(実は高野山に限らず一般に「深山」と考えてもよいのですが)「法身の里」と呼ばれているということです。この「法身の里」という言葉ほど、高野山空海にとって何であったかをよく物語る言葉はありません。空海の定めた金剛峰寺伽藍のマスタープランの中心に、法身大日如来の象徴である多宝塔・・を置いているのは、そこが「法身の里」と呼ばれるべき場所であったからなのです。
法身」というのは、遍く存在するもの(仏教ではそれを「法界」と言います)の象徴であるビルシャナのことです。宇宙そのもの、あるいは大自然そのものと考えておけばよいと思います。密教の修行の最終目的はこの「法身」の境位に悟入すること、それとの宗教的一体感を自己の全存在をもって体得することです。」(同、16-17頁)

そして、山中の生活の楽しさをうたった空海の「勝道碑文」からの引用で本書を閉じる。

「山は高くそびえ、水は澄みわたっている。美しい花は燃えるように輝き、珍しい鳥が美しい声で鳴いている。大地から洩れ出るような谷川のせせらぎ、天空をわたる風の音は、まるでそのままに筑や箏(筑も箏も竹でできた楽器)が奏でられているかのようだ。普通とは異なった優れた人がそこに身を置くと、大自然の音楽が響きわたる。
辺りを見渡せば憂いは消え去り、多くの煩わしい思いも消えてしまう。人の世にこのようなものがあるのだろうか。神々が住むという天上にこのようなものがあるのだろうか。・・さあ、志を同じくする者よ、ゆったりと山に遊ぼうではないか。」(同、235頁)

もちろんこの自然は、ただの自然ではない。法身の里という象徴性をもった自然だ。ここに、「斗藪」としての自由の根拠がある。このように、モダニスト空海の自由は、きわめて強力な象徴性によって支えられている。そして、その象徴性は、修行という身体経験によって日々確認される。
それに対して、近代のモダニストは、苦痛や煩悶のなかから、失われていた象徴性へと開眼していく。それは、残映としての自然を手がかりにした、象徴的意味の再発見の試みであると思われる。
モダニズムが、あるいはそもそも人間の生活が、ただの断片的な生活経験の寄せ集めとなるか、それとも真の自由の経験となるか、それを決する一つの試金石となるのは、さまざまな経験の背後にある象徴を読み取る力ではないだろうか。