山頭火と放哉

上田閑照『ことばの実存 禅と文学』筑摩書房、1997年


種田山頭火(1882[明治15]年〜1940[昭和15])と尾崎放哉(1885[明治18]年〜1926[大正15]年)は由律俳句を代表する俳人として有名である。
しかし、その句と較べて、二人の生涯についてはあまり知られていないかもしれない。本書におさめられた「山頭火と放哉」を読むと、─もっとも著者の主題は別にあるのだが─この二人の詩人がいかに日本近代という時代と共に生きたのかを教えられる。

「放哉は鳥取山頭火は山口、二人とも地方の旧家に生まれ育ち、大学は東京に遊学する(放哉は第一高等学校から東京帝国大学法学部、山頭火早稲田大学文学部)。これは近代日本のいわゆる知識階級ないしエリートが歩んだ典型的な道であり、社会に出て二人ともいったんは尋常な生活に入る。放哉は最も近代的な制度の一つである保険会社に入り若くして要職を歴任し、山頭火は大学在学中は西欧及びロシヤの近代文学に親しみ、その後帰郷して家業(酒造業)を継ぐ。しかし二人は知識階級にとどまらず、エリートにもならず、地方の名士にもならず、やがて急転直下のごとくに社会から脱落、出離し、生活の破綻者となる。」(152-153頁)

近代という時代を生きるということは、必ずしも生活の破綻を意味するわけではないだろう。しかし、近代という時代が、いわば歯車のように回転する機械仕掛けのシステムだとすれば、そこに合わなくなってしまった者は、おちていくほかない。

「近代を経験してのこのような二人の社会からの脱落は、近代の可能的破綻を自らの生活の破綻によって先取りしたとも言えるであろう。脱落して、そして、どこへ?二人がその生死を尽くして示したものは「われわれのこの世でしていることはいったい何なのか」であり、近代の行方ではなく、ポスト・モダンではなく、総じて人間の営為全体を含む歴史の行方であったと言えるであろう。「墓のうらに廻る」(放哉)。「分け入っても分け入っても青い山」(山頭火)。」(153頁)

ところで、自由律俳句を大きく展開させたのは、放哉も山頭火もその脈に連なる、荻原井泉水1884年〜1976年)である。
井泉水が自由律俳句を展開しようと思ったのは、東京帝国大学在学中にふれた「ゲーテの自然観、人生観、詩、ことに短詞から受けた示唆」による、という。

「井泉水における自由律とは、必ずしも定型の制約に入らず、必ずしも季語を必要とせず、ただひたすら自己の心から湧き出るものを自由にうたうことを第一義にするというのが根本趣旨であった。それは自己の内に深く探究して、大自然と流通するような自己の内なる自然─「自然の光」「自然の力」が同時に「生命の光」「生命の力」であるもの─に触れることを道とする。」(155頁)

「自己の心から湧き出る」というところに、自由律俳句の近代的な性格が出ている。しかし、この「自己」は、単なる「私」としての自己ではない。むしろ、「私」の閉塞を突破する自己である。

「自己の心から湧き出るものを自由にうたうには、何よりもまず「自己の心から湧き出るもの」がなければならない。それには自己内の閉塞が破られなければならない。句作以前の「態度」こそが決定的となる。「自己のうちに自然を獲得する事、それが私の信仰である」とまで井泉水は言う。」(155-156頁)

興味深いことに、このようなきわめて近代的な文学的態度が、伝統的な宗教的求道と結びつく。

「句作の「態度」を強く問題にした井泉水において自由律俳句の道が「求道」的性格をおびてきたが、このことはさらに、自らの誕生について「ある晩、母の夢に地蔵尊が現れて……」と語ることができた彼の内なる仏教的素地を俳句の道へと活性化させることにもなった。・・・西欧の詩に触れて文学としての俳句の精神・・に目覚めたことが季題・定型の伝統からの離脱につながるという近代の出来事・・・と、近代に抗する伝統の再活性化との一見異現象とも言えるこの結びつきは、近代日本のさまざまな文化領域において起こりえたことであるが、それだけにその結びつきそのもののあり方が問題になるであろう。井泉水の場合は、自由律の形式にほとんど直接に仏教が内容になって入っていると言える。大正九年の句を一つ挙げてみる。「仏を信ず 麦の穂の青きしんじつ」。」(158頁)

一昨日(7月30日)、昨日(7月31日)と、「自然」に注目してきた眼で見れば、ここでも「麦の穂」という自然の素材が仏という真実を象徴するものとして使用されていることに気づかされる。著者は、井泉水が高野山─「法身の里」─で詠んだ句を五つ挙げているが、そのうち三つを引用しておく。

「仏と居る庇を深く月に籠り」「鐘いんいんと月光さざなみ寄る」「地は寂光のまんだらとなり月高し」(159頁)

著者は、井泉水に見られた詩と仏教との親密な関係が、放哉と山頭火においていかにあったのかを論じる。
近代の可能的破綻を、いわば埋めるかのように仏道に進んだ井泉水に対して、放哉と山頭火は、その可能的破綻の現実化へと進む。しかし、この可能的破綻の現実化は、井泉水とは異なった筋道をたどって、仏道に通じる。

「それは、井泉水のように積極的に仏道を求めるというのではなく、むしろ、隠れてマイナスの素地であったいわば「無」を正面から生きようとする、生活を捨てて「無」を生きようとすることであった。(放哉も山頭火も事実自殺を考え、自殺を試みている。)そしてそれによって、迷いに迷ったものが転落した機に、そこに仏道が開けていたとでもいうように因縁によって仏道に導かれたということである。」(161-162頁)

著者が挙げる、仏道に関する二人の句を引用してみよう。まずは放哉。

 念彼観音力風音のまま夜となる
 風にふかれて信心申して居る

つぎは山頭火

 松はみな枝垂れて南無観世音
 生死の中の雪ふりしきる

もちろん、放哉と山頭火の二人をためらいなく仏教者と呼ぶことができるわけではない。彼らは、葛藤を生き抜く。しかし、ふと葛藤が忘れられる時があり、そこに、詩が生まれる。この境位は、一昨日取り上げた山折氏の言葉で言えば「自己と自然が相互に入れ替り相互に浸透する関係」と言えようか。可能的破綻が、ふと自然との調和か何かによって、忘れられる。そこに、詩が生まれる。(漱石ならば、「則天去私」か。)
しかし著者は、山頭火と放哉の句に、もう一つの葛藤の水準を見出す。詩的に表現された境位(たとえば「咳をしても一人」という句が生み出された時の境位)は、「実存の境位に転化し、実存の境位としては再実現さるべき「理想」と化して実存の現実態との葛藤の度をより高めるものとなる」(171-171頁)。だから、彼らの句には、葛藤から抜け出た平安というよりも、「葛藤に疲労し尽くした非力の静寂」(172頁)が宿る。

 どうしようもないわたしが歩いている
 六十にして落ちつけないこころ海をわたる

山頭火のこのような句は、ひとによっては軟弱なものと受けとられるかもしれない。しかし、そのように感じとる感性の出所は、近代という歯車の進行に耐えることのできる強靭さでしかないのではないだろうか。そのような強靭さが潜在的破綻の現実化を免れているのは、ただ運がいいだけのことかもしれないのに。運に支えられた生活の幻想を見抜き、近代の潜在的破綻を生き抜いた人間がこのようにうたうとき、そこには軟弱といって済まぬ、人間の業が表されている。
もっとも私個人は、こういう「非力の寂静」をうたう作品に共感しつつも、「葛藤の生」というネガを翻した「虚無よりも大きな無」(184頁)がより鮮明にうたわれているものの方を好む。例えば、著者が最後に引用する次のような句だ。

 山に雪少しある朝のいのり     放哉
 今日いのちのおだやかに落ちる日  山頭火

いずれも「自然」を通して「いのり」や「いのち」がありありと描かれる。
近代の歯車から滑り落ちた人間が、それでもなおこの世界を生きることができたのは、山に雪が残り、日が没するこの世界を包む「大きな無」を、密教的に言えば「法身の里」を、生きることができたからではないだろうか。

*明日から調査旅行のためしばらく更新できません。八月後半には再開する予定です。