『パンセ』を読む

塩川徹也『パスカル『パンセ』を読む』岩波書店、2001年


(*9月2日12時過ぎに一旦アップしたものを、少々書き改めました。)
先週、とある学会に出席しながら、人生において大切な書物とは弁証論の本ではないか、と思った。
さまざまな本を読むとき、私たちはすでに、一定の立場をとっている。そして、その立場に役立つような仕方で、書物から、考え方を学んだり、情報を得たりする。
本を読んで考えが変わった、ということもあるかもしれないが、その多くは、すでに自分のなかにあった考えに気づいたり、それを引き出して展開したり、ということが起こっているのではないだろうか。
だから、もっとも根本的な問題を扱う書物とは、立場そのものを弁証する書物のような気がしたのだ。
実際、そうした本は必要とされる本でもある。自分が無自覚のうちに前提していた立場の不確実性が露わになるとき、私たちは、自分の立場を見直し、それに対して新たな確信が得られるような書物を求めるだろう。
「弁証論の本」が大切と言ったのは、そのような意味である。(もちろん、立場の異なるものに対しては、不快や嫌悪さえも感じるだろうが。)
(ちなみにキリスト教神学では、apologeticは弁証学と訳すことが多いようだが、ここでは広くさまざまな立場を弁証する議論という意味で弁証論とした。)

パスカルの『パンセ』はキリスト教護教論として構想された。だから、一種の弁証論の書物といってもよいだろう。それは、キリスト教の弁証だけではなく、神が創造したこの世を生きるということの弁証をも含んでいる。
以下では、冒頭に掲げた塩川徹也氏の著作の第三章「「キリスト教護教論」の此方─人間学政治学」を通して、この世界を生きる意味をどう考えるかという問題を考えていきたい。

著者は、まずこの世を生きる<私>に関する断章を『パンセ』から引用する。

「<私>とは憎むべきものだ。ミトン君、きみはそれに覆いをかけているが、だからといって、それを取り去ることにはならない。だから、きみはやはり憎むべきものだ。
「そんなことはない。だって、ぼくらがしているように、皆に親切に振舞えば、ぼくらが憎まれる理由は、もうなくなるのだから」。─なるほど、もし<私>を憎む理由が、<私>のうちにあって人に不快な思いをさせる横暴さだけなら、その通りだろう。
だがぼくが<私>を憎むのは、<私>が不正であり、すべての中心になっているからだとすれば、ぼくは<私>をやはり憎み続けるだろう。
要するに、<私>には二つの性質がある。それは、自分をすべての中心に据える点で、それ自体として不正であり、他者を従属させようと望む点でははた迷惑である。というのも、各々の<私>は互いに敵であり、あわよくば他のすべての<私>の暴君になろうと望んでいるのだから。きみは迷惑を取り除くが、不正は取り除けない。
だからきみは、<私>の不正を憎む人々に対して、<私>を愛すべきものとすることはできない。そうできるのは、もはやそこに自らの敵を認めない不正な人間が相手の場合だけだ。だからきみは、不正であり続け、不正な人間にしか気に入ってもらえない。
(XXIV/597; B 455)」」(118-119頁)

手もとにある津田穣訳(新潮文庫)では、この断章は次のように訳されている。

「自我は厭うべきものである。ミトンよ、自我をおおうてみるがよい、おおうたからとて取り除かれるわけではない。それゆえに君はやはり厭うべきものである。」(『パンセ』津田穣訳、新潮文庫、上巻、285頁)

「自我」というところに鉛筆で印がつけられているのだが、自我というと、やや第三者的な視点の印象が強い。
しかし、著者によればこれは、第三者的な観察によるのではなく、パスカル自身の痛切な体験に由来する言葉だという。

「極端な議論[<私>が憎むべきものであるということ]ですが、これが、パスカル自身の痛切な思いに発しているのは確かです。というのも、別の断章に、次のような言葉が記されているからです。「人が私に愛着の気持ちを抱くのは、正しくない。たとえ、喜んで心からそうしても同じことだ。[……]私を愛してもらうのは、罪深いことだ」(I/396; B 471)。・・・憎むべき<私>は、パスカルにとって、普遍的な真理である以前に、自分自身の痛切な体験なのです。しかし、このように悲観的な自我観から出発して、果たして<私>同士の間に、安定した関係と秩序を構想することができるのか。」(120-121頁)

憎むべき、不正なる我。キリスト教はそれを「原罪」とよぶ。それを前提にして、はたしていかにして他者との関係を構想することができるのか。実は、それゆえにこそ人間は他者との関係を必要とする、というのである。

「・・・パスカルのいう自己愛は、他者を排除して、ひたすら自己の中に休らって自足することのできる愛ではない・・・。それは優越欲や支配欲、さらには見栄と言い換えられるように、他者によって自分を承認され、さらには愛されたいという欲望を本質的な契機として含んでいます。自己愛の対象である<私>は、他者から認められ、愛されることなしには、自らを支えられません。」(129頁)

だからこそパスカルは次のようにまで述べる。

「人は邪欲を基礎として、そこから統治と道徳と正義のすばらしい規則を引き出した。(16/211; B 453)」(129頁)

これは、人間の手になる社会的関係を手放しで礼賛するものではない。
パスカルは、人間と人間との関係においてまず初めに生じるのは正統性を欠いた「不当支配(tyrannie)」だという。原罪を負った人間が他者との間に築く関係は、政治学の用語でふつう暴政や専制と訳される言葉で表現されるものだというのである。
「不当支配とは、おのれの領域を越えて普遍的な、支配の欲望のことである」、「不当支配とは、ある経路を通じてしか手に入れられないものを、他の経路を通じて手に入れようと望むことである」などのことばを『パンセ』から引用した上で、著者は次のように述べる。

「不当支配の欲望は、異なったカテゴリーの価値を混同してその優劣を競うこと、つまり思想の混乱に由来する。だから、力でも美でも学識でも、それぞれの領域にきっちり留まって、他の領域を浸食しなければ、世の大半の争いごとはなくなるはずです。しかし問題は、それが本当に可能かということです。」(134頁)

それは可能ではない。なぜなら、このような不当支配に関するパスカルの言葉は、それを諫める教訓を述べるものではなく、事実を述べるものだから。
統治の指導原理はこの事実に基づいて始まる。

「不当支配の欲望は、憎むべき<私>そのものなのですから、それを根絶することはできません。しかし、人間の根本的なあり方である限り、それは、あらゆる人間関係、さらには共同体、そして「統治と道徳と正義のすばらしい規則」を生み出す指導原理として働いているはずです。」(137頁)

この人間の悪しき「欲望」が統治のための指導原理として機能するにあたって重要な役割を果たすのが、「想像力」である。「欲望」と並んで、指導原理として作動する「想像力」の中に、「不当支配」が「統治」の規則へと変換する秘密がある。

「なぜなら、人間は、他者が自分について抱いているイメージを想像することによって自らの価値を測定し、また相手に対して自分の望ましいイメージを与えようとすることが、行動の原理となるからです。」(140頁)

著者によれば、パスカルが人間の共同体の創設にとって必要だと考えたのは、「必然性の絆」(生存競争や弱肉強食で作動する力の原理)だけでなく、この「想像力の絆」だという。

「いくら力が共同体の形成と維持の究極の原理だとしても、それだけでは、どうして異なった体制が誕生し維持されていくかを説明することができません。人間の意識によって媒介されない裸の力は、すべてを引きずっていく「必然性の力」ではあっても、人間関係と政治体制の多様性を生み出すことはありません。それは、「想像力の絆」なしには、働かないのです。」(143頁)

この「想像力の絆」については、章末の次の説明が簡明だ。

「<私>は物質的富も精神的富も貪り、他人に優越し、そのことを当の相手にも世間一般にも認めさせたいと願っていますが、他者が<私>について、不正で間違っているというイメージを抱くことには耐えられません。<私>は、他者の目には、正しく考え、正しく振舞っていると映りたいし、またそのように見えなければ評価されません。」(169頁)

私たちは、どうしてわざわざこんなに面倒な社会を維持しながら生きていかなければならないのか。
私にとって、自分の思考や研究の前提を問う問いは、例えばこのように表現できる。そして、この問いに対しては「生きていかなければならない」という立場の弁証しか解答としては許されない。これが私の「立場」だ。そして、その弁証の仕方は多様な形で存在しうる。
『パンセ』には、この「立場」を弁証する一つの断章が含まれている、と思う。
それを単純にまとめれば、自分が生きていくためには、他者からの承認を必要とするのであり、そのために、人びとはただの必然性だけではなく、想像力の絆でも結ばれている、というのだ。
その答えが正しいかどうかはひとまず措く。大切なことは、ともかくこの問いを問うということではないだろうか。なぜなら、その問いを媒介にして、この面倒な社会を生き抜く意味を考え、ふだんの自分の生を支える社会的絆を見直すことができるかもしれないから。
社会を生きるとは、他者の眼の想像力を通して、自己を支えるという出来事の不連続の連続といえようか。不連続の危機の際、私たちは、新たなる想像力を働かせ、自己を承認する新しい他者と絆を結ぶ。それは、既存の役に立つ知識や情報では手に入れられない、人生の支えとでも言うべきものだ。
「立場」の意義は、不連続な中に一貫性を見いだす指標となること。「立場」の弁証を通して人は、人生の方向性を変化させつつ一貫させる。古典とされる書物は、そのような方向を指し示す力によって、古典でありつづけるのだろう。