壊れていない部分

白石一文『僕のなかの壊れていない部分』光文社文庫、2005年


白石一文の小説をはじめて読んだ。
ところどころ描かれる男女の場面に嫌悪感を感じる人も多いだろう。主人公の振舞や言葉に理不尽さを感じ、小説の中に入っていけないと感じる人もかなりの数いることだろう。しかし、そうした叙述の表面をくぐり抜けてゆくと、考えるべき問題に突き当たる。
何が考えるべき問題なのか、それを掴むこと自体が実は難題で、だからそのようなものへと導こうとする書物は、貴重なものだ、と思う。
「考えるべき問題」といったが、それは、どんな問題か。
主人公は例えば次のように問う。

「どうして僕は自殺しないのだろう?」(244頁)

これは、そもそも考えて結論が出るような問題ではないのだろうが、主人公は次のように考える。

「それは多分、自分に他人の命を奪う権利や資格がないように、自らの生命を奪う権利や資格もないからに過ぎないと僕には思える。ともすれば人は自分の力で生きていると錯覚しがちだが、そんな力は人間にはない。誕生それ自体が自分の意志や力とは無縁であり、生きているさなかは確かに思えるその意志や力も、死の前では生まれたときと同様にまったく無力なのだ。要するに人間は、最初から最後まで、自分のことを何も決めることができない。であるなら、自分の生を勝手に終わらせる権利などあるはずもないし、他人の生を奪う権利もあるわけがない。人は生きているのではなく、ただ生きさせられているだけなのだ。」(244頁)

主人公の思考は、おそらく、高校生のころに真知子さんから読まされた文章のエコーである。
難病を患って生家のお寺に戻ってきた真知子さんと出逢ったのは、主人公が高校一年生のとき。真知子さんは主人公に、戦争孤児の救済に力を尽くした常岡一郎の文章を勧めた。主人公は、「人は何のために生まれたのか」という文章を二十九歳になった今でも記憶している。

「・・・生と死、吸うこと吐くこと。眠ると起きる。食うのと減ること。自分と他人。生かすことと生かされること。すべて二つの組合せでしょう。だから、人を生かす。相手を生かす。よろこばす。伸ばす。守る。ここに全身全霊をつくす修行、訓練が毎日の課業だと私は考えています。ここに私が胸を病んで、また救われた道があったと思っています。「人は何のために生れさせられたのであろうか」というお答えになるでしょうか。結局、自分の一日一日を全力をかたむけつくして自分を空にして相手にささげ、相手を許し、相手を伸ばすことに努力していくことが、われまた育つ道だと信じますので一言申し上げました。」(263-264頁)(巻末の文献表によると『人生の目標』常岡一郎、稲垣多恵子編からの引用。)

こういう記述が随所にあらわれることに、説教臭い、宗教臭いと感じる人も多いようだ。こういうことは、論文等の形式で書くべきで、小説にすべきではない、と。
しかし主人公は、こんなふうに宗教臭いことを考えながら、同時に、非常識で分裂した生き方しかできない。ここに、文学の描き出しうる、壊れた現実の人間があるとは言えないだろうか。「考えるべき問題」、あるいは、考えるときに忘れてはならぬ人間の現実、とでもいうべきものが。
だから、観念性が強すぎる、思想性が出過ぎている、そういう作品に対する批判は、批判にはならない、と思う。観念性や思想性に、著者は絶望している。だからこそ、観念の塊の数々を書きつけているのだ。(もしもそうでなければ、著者は学者になっていたのではないだろうか。)
ところが、そのような、救いようもない壊れた現実の叙述の果てに、目を向けるべき世界への期待が描かれる。

「こことはちがうどこかが必ずやある。
だからこそ、ここでは、たとえどんなに自分以外のものに対して懸命につとめ、自らを虚(むな)しくしたとしても、その本当の価値が認められることがないのだ。そうした行為は、この世界とは異なる新たな世界へと飛び立つときに初めて、前途を照らす灯火となり、僕たちを運ぶ翼となってくれるものだからだ。」(368頁)

こことはちがうどこか。
これは、観念や思想などという表面的なものとは違う、もっと何か根源的な、生きるということに根づく現実のような気がする。多くの人が、痛みや苦しみの中で祈らざるをえないという事実が指し示す、人間のもう一つの現実。
主人公─そして著者─は、市民的常識の観点からすれば、かなり危うい地点にいると言えるのかもしれない。しかし、寺の娘の真知子さんがそうであったように、このような世界観を、私たちの祖先は生きていたのではないだろうか。そうした世界観を失って、私たちは何を生きているのだろうか。あるいは、私たちはそうした世界観をまだ完全には失っていないのだろうか。