草にすわる

白石一文『草にすわる』光文社文庫、2006年


とあるベストセラーの広告に、「生きる意味を探さない」(正確でないかもしれないが・・・)という章題が紹介されているのをみて、もしかしたら、最近のこの日記を続けて読んでいる人に、何か誤解を与えてしまっているのかもしれない、と気になった。
生きる意味やら理由やらを考えましょう、ということを言おうとしているのではない(言っていないわけでもないが)。
そうではなく、生きる理由やら意味やらをやたらと求めるようになってしまう背景を考えたい、と思っている。
生産の効率性・利潤の極大化を追求する近代・現代社会のなかでは、組織に属する人間の生の意味は、組織の業績を表す数値にいかに貢献したかばかりではかられるようになりがちで、そのためにしばしば、何のために生きているのかがわからなくなる。(もちろん、それによって何のために生きているのかが明瞭になるひともいることだろうが。)だから、その空隙を埋めるように、人生観にまで深く入り込むような自己啓発セミナーやビジネス本などが出回る。そして、そういうものを通じて提供される「意味」なるものを媒介にして、現代社会はさらに回り続ける。
そういう社会の仕組みにどっぷりと浸かりきっていることを、ひとまずは冷静に見直して、自分の足で生きなおすための手がかりを見つけたい、特に最近は、そんなふうに思って、この日記を書いている。(もっとも、なかなか書けない日が多いのだが。)

一昨日とりあげた白石一文の、冒頭の短編集をとりあげたのは、著者の「あとがき」が気になったからだ。

「よく私の小説は、エリートばかりを主人公にしていて、しかも男性中心主義的で鼻持ちならないと批評される。しかし、それは私から言わせれば実に表層的な捉え方でしかない。私が自作で常に言わんとしてきたのは、結局、この社会でのいかなる成功も夢の実現も、それだけでは個としての自身の精神的な成長にまったく結びつかないということだ。」(268頁)

同感する。
もちろん、地位が人をつくる、ということもあって、成功した人の多くは精神的にも成長しているものだと、個人的な経験からは思う。しかしそれは、地位に伴う責任や全体を見渡す位置取りなどによるのであって、その地位を手に入れるという「成功」自体によるのではないだろう。
では、「個としての自身の精神的な成長」とは何か、どうすればそれが得られるのか。

「法や正義も含めて、この社会のルールも仕組みもすべては、私が私として生きるために便宜的にそなわっているものにすぎない。・・・私が私の人生を生きるということは、この肉体をどうこうするということが第一義なのではなく、私という心を私がいかに生きるかということにこそ重点が置かれるべきなのである。」(269頁)

「私という心を私がいかに生きるか」、このような言葉を、心身二元論を批判する身体論やらなにやらを持ち出して批判するのは、単なる頭だけの操作にしか過ぎないような気がする。大切なことは、こういう言葉で何が意味されているのか、できるだけ丁寧につきそうことだ。

「この複雑多様な世界に困惑したり酔ったり、途方に暮れたりする必要などちっともないと私は思う。なぜなら「この世界とは一体何か?」という問いは実は幻影でしかないからだ。そして、私たち一人一人に与えられている問いは、ただ一つ、
「私とは一体何者であるのか?」
という問いだけなのである。
世界や社会のために私があるのではなく、私のためにこの世界も社会もある。
この単純な真実を、私たちは果たしてどこまで本気で信じ切れているだろうか?」(269-270頁)

ここには、著者の、作家としての信念が書かれているように思う。そして、『草にすわる』の三つの短編が描くのは、登場人物と世界との、著者の言う意味での「真実」の回復なのだ。
しかし、果たして、真実の問題は「私とは一体何者であるのか?」なのだろうか。たしかに、小説という世界においては、そうなのかもしれない。ただそれは、失われた象徴体系を取り戻すための、真っ逆さまの反抗の試みのような気がする。しかし、それ以外に道がないのならば、その道を進むほかない。
著者のあとがきから、そんな潔さを感じた。