偶像について(2)

和辻哲郎偶像崇拝の心理」、「樹の根」、『偶像再興/面とペルソナ 和辻哲郎感想集』講談社文芸文庫、2007年


『偶像再興』の新版(昭和12年)において和辻は、これを「幼稚な、拙ない感想文の集」とよび、「一時著者は慚愧の情なしにこれらの感想文を見ることはできなかった。今でもそれらが何らか優れたものを持っているとは思っていない」と述べている(『和辻哲郎全集』第十七巻、3頁)。
「若書き」の雰囲気あふれるこれらの文章は、だからこそ和辻の発想の原点を証言してくれるように思う。

偶像崇拝の心理」における「偶像」とは宗教的礼拝の対象となる「優れた芸術」のことである。
芸術作品ではなくて「偶像」という言葉を使用するのは、それに対する礼拝が「芸術」と「宗教」にまだ機能分化していなかった時代における人間が考えられているからである。それは、ベンヤミン流にいえば、アウラが失われていなかった時代である。

「まず私は、人間の心のあらゆる領域、すなわち科学、芸術、宗教、道徳その他医療や生活方法の便宜などへの関心等によって代表せられる人間の生のあらゆる活動が、なお明らかな分化を経験せずして緊密に結合融和せる一つの文化を思い浮かべる。そこでは理論は象徴と離れることができない。本質への追求は感覚的な美と独立して存在することができない。体得し真理は直ちに肉体の上に強い力と権威とをもって臨むごときものでなくてはならぬ。すべてが融然として一つである。」(195-196頁)

和辻は、このような未分化一体の世界に仏教が入ってきたことの意味を思考する。仏教は単なる宗教としてではなく、芸術としても人々の心を捉えた。

「試みに見よ。その円い滑らかな肩の美しさ。清楚なしかもふくよかなその胸の神々しさ。清らかな、のびのびした円い腕。肢体を包んで静かに垂直に垂れた衣。そうして柔らかな、無限の慈悲を湛えているようなその顔。─そこにはいのちの美しさが、波の立たない底知れぬ深淵のように、静かに凝止している。それは表に現れた優しさの底に隠れた無限の力強さである。・・・肉体のはかなさは・・・本来清浄なる人間の「心性」によって打ち克たれ、そこに永遠なるいのちの、「仏」の、象徴を実現しているのである。」(200頁)

「偶像」という象徴的表現によって指し示される象徴的内容の深さこそが、人間の存在の根っこをつくる。
偶像崇拝の心理」と共に『偶像再興』に収められた「樹の根」において、和辻は次のように述べている。

「古来の偉人には偉大な根の営みがあった。そのゆえに彼らの仕事は、味わえば味わうほど深い味を示してくる。」(192頁)

アウラの消失した時代には、このような偉大な営みをただ想起によって追体験するほかない。和辻のいう「教養」とは、往事の「偶像」を追体験することによって、存在の根っこを深く伸ばすことを言うのだろう。