「待つ」ということ

鷲田清一『「待つ」ということ』角川選書、2006年


この時期、大学の教員はとある書類作りに追われる。毎年というわけではないのだが、そういう順番にあたったときは、なかなかハードだ。
人によっては、そんな仕事には意味がない、といい、どうせ読んでは捨てられるだけの文書づくりよりも、身近な学生のための教育や、日々の研究を続けるのがよいのだ、と考える。
一理ある、と思う。でも、多くの組織ではそれが業務化され、そこから逃れるのは難しくなっている。だとすれば、せっかくだから、書類書きをするついでに、何かを学びたい。
大阪大学の総長をつとめる著者は、現象学の研究からスタートし、臨床哲学の第一人者。いつの間にか、臨床哲学という言葉も普通のものになった。
(実は、この記事を書いてから気づいたのだが、この本のことは08年9月2日の日記でも取り上げていた。)

「待たなくてよい社会になった。
待つことができない社会になった。
待ち遠しくて、待ちかまえ、待ち伏せて、待ちあぐねて、とうとう待ちぼうけ。待ちこがれ、待ちわびて、待ちかね、待ちきれなくて、待ちくたびれ、待ち明かして、ついに待ちぼうけ。待てど暮らせど、待ち人来たらず……。だれもが密かに隠しもってきたはずの「待つ」という痛恨の想いも、じわりじわり漂白されつつある。」(7頁)

印象的なまえがき。自分の生活を振り返っても、「待つ」ことができないことに愕然とする。
もともと自分はこんなにせっかちだったのだろうか。それとも、社会がせっかちになったのにいつの間にかシンクロしてしまったのか。

「せっかちは、息せききって現在を駆り、未来に向けて深い前傾姿勢をとっているようにみえて、じつは未来を視野に入れていない。未来というものの訪れを待ち受けるということがなく、いったん決めたものの枠内で一刻も早くその決着を見ようとする。」(9頁)

自分のことを言われている、と思う。もう話は決まっているのだから、その枠内でできることはやってしまえ。自由にするのは、そのあとだ。と思いつつ、枠内で仕事を終えれば、また新しい枠の仕事がやってくる。

「意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をわたしたちはいつか無くしたのだろうか。偶然を待つ、じぶんを超えたものにつきしたがうという心根をいつか喪ったのだろうか。時が満ちる、機が熟すのを待つ、それはもうわたしたちにはあたわぬことなのか……」(10頁)

なぜ、待つことができないのか。待つあいだの、想像の嵐が息苦しい。
自分は間違ってしまったのではないか、ならば、その間違いをわびたい。
自分は誤解されてしまったのではないか、ならば、その誤解を解きたい。
そこで、携帯やら、メールに向かう。
でも、そういうもので、人はいったい何のやりとりをしているのだろう。もともとわかりようのない人の気持ちの、何を推し量った気になっているのだろう。
偶然性や不明瞭なものを消し去って、自分にとって世界を明瞭にすること。待つということから逃げる動機は、そんなところにあるような気がする。
しかし、それは、駄々をこねる子どものようだ。
こういう自分が、世界にどんな影響を与えているのか。著者が引用する西川勝氏の文章(西川勝「ケアの弾性」、文部科学省科学研究費補助金基盤研究C-1報告書『看護の臨床哲学的研究』所収)が刺さった

「ぼくが、看護師として血圧計を持って部屋に入ると正座に座りなおす人が多かったので、こちらも自然と生真面目になっていた。誰か一人の落ち着きがなくなってくると、物理的環境は少しも変わっていないのに、その場の空気が固まったようにギクシャクしはじめる。一人の変化が周囲に波及しないように、職員が何気ないふうに座卓の上に新聞を広げ、挟み込まれていたチラシ広告を別の利用者に手渡したりする。スーパーの広告写真から、好きな食べ物の話になって、場の空気が平穏にゆっくりと動きだす。ここで起きたことから言えるのは、場の雰囲気を変えた原因を誰か一人の行為に還元できないということである。その場にいる人たちそれぞれの「場を整えるための小さな行為の積み重ね」を交換する人間が、場を徐々に変化させていく。ケアの「場」の底流にあるのは、「ていねいなお付き合い」ともいうべき共有されたプロセスである。」(121頁)

「ていねいなお付き合い」は、自分の力をこえた、場の流れにゆだねる信頼による。
ならば、せっかちは、場を支配しようとする不信に由来する、といえようか。