ひきこもりの国

マイケル・ジーレンジガー『ひきこもりの国 なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか』河野純治訳、光文社、2007年(原著、2006年)


やや型にはまった日本観、どこかで耳にした日本人論が続く。読んでいて、新しいことを発見するということは、あまりないかもしれない。
しかし、ここで問題とされている日本を、日本人自身がどれだけ真剣に考えているのか、その改革のために行動しているのか、考えさせられ、反省させられる。
焦点は、タイトルにある「ひきこもり」。この問題に取り組んでいる日本人の発言を引用する。

「これまで六年間、南は、社会との関係を断って家から出てこないひきこもりの若者たちのほか、主として学校へ行くのをやめてしまった不登校の子供たちを支援してきた。南は子供たちに教えることを、たった二つの基本原理に絞りこんでいる。「選択と責任」と南はいう。「選択と責任こそ、ここで学んでいってもらいたいことなのです。自ら選択し、その選択に責任を持つ。それさえできるようになれば、じっさいもう何も教えることはないじゃありませんか?」」(126頁)

「「ひきこもりは、たいていの場合、子供本人の問題ではありません」・・「問題は母親の不幸や悲しみにあるのです」渡辺によれば、ひきこもりの根本原因は世代間の緊張関係、そして、日本が一九四五年についに受け入れざるをえなかった敗北という国家的大事件によって子供時代に心に深い傷を負った大人たちに求められるという。復員した兵士たちは、戦場での残虐行為についての罪悪感を、黙って心の奥深くにしまいこんだが、その罪悪感は世代を超えて伝わり、現代の青少年の自己喪失状態となってあらわれている。」(132頁)
「渡辺が子供を治療するときには、父親と母親のあいだの相互作用を促すことが多い。「とても孤独な人たちです。いわゆる母親の役、父親の役を演じようと一生懸命なんですが、夫婦が助け合ったり、喜びを分かち合ったりということがありません。まったく空虚な関係で、ふつうの会話、くつろいだ会話さえないのです。私が最大の力を注ぐのはこの点です。ほとんどの場合、子供にはまったく問題がありません。問題は親です。・・彼らのなかに潜んでいる哀れな子供たち、それが私の仕事の主たる対象なのです」」(136-7頁)

「工藤は「二重の壁」[完全に自室に閉じこもり、家から外に出られないだけでなく、人との交流がまったくないひきこもりの状態を表現する比喩]に閉ざされたひきこもりは日本独特のものだと考えているが、経済的豊かさが生んだ現代日本の社会行動様式を反映しているという考え方には反対だ。工藤にいわせれば、ひきこもりは日本の矛盾した文化の産物なのだ。「ひきこもりの元祖は天照大神です」工藤は日本神話に登場する太陽の女神を持ち出した。「日本には何千年も前からひきこもりがいたはずです」と工藤は主張する。・・・「私たちの文化では、ひきこもりは、自分一人の場所を確保し、自分自身の問題と向き合うことを意味しています。そしてその間、感情や身体は表に出しません。それは他者の眼の前に顔をさらしてやるようなことではないのです。だからみんな自室にひきこもり、人生や自分の問題と向きあうのです」」(145-146頁)
精神科医である渡辺はカウンセリングや入院治療によって、社会的に孤立した青少年の苦痛を緩和するという方法を採っている。フリースペースを運営する南は、子供たちを自由に遊ばせている。それに対して工藤は、もっとも治療効果があるのは仕事だと信じて疑わない。「私たちの社会では、人は自分の力で生きのび、生計を立てていく技術を身に着けなければなりません」と工藤はいう。「ですから、若者たちにはまず、安心を感じてもらいたい。それから世の中でやっていくための技術を学んでもらいたい。そうして外の世界の緊張や要求に順応していかなければなりません」」(140-141頁)

ジーレンジガーは、三人の発言を次のようにまとめる。

「三人は驚くほどよく似た方針を掲げている。彼らは若者一人ひとりが自分の人生に対して自分で判断することを求めている。また彼らは、集団の感情よりも個人の自主性を尊重したいと考えている。そして、目標を見失った青少年、苦悩する青少年が生きていくには、柔軟で開放的な、安心できる環境が不可欠だということを、よく理解している。だが、それはまさしく、現代日本で徐々に失われようとしている環境なのだ。」(146頁)

ジーレンジガーの記述する三人の発言は、いろんなことを考えさせる。
まず、ここには何か特別に変わったことが書いてあるわけではない。それなのに、そういう当たり前のことが新鮮にきこえるというのは、過剰な自立性志向がかえってひきこもりを生み出した(近代の行き詰まりがひきこもりの原因)と私自身が考えていたせいなのかもしない。(過剰な自立性志向がかえって自立へ向かうことを恐れさせるという側面が皆無というわけではないだろうが。)しかし、こうした考えによって自立を支援することを怠るならば、ひきこもりはいっそう深刻になりかねないようである。
実際にひきこもりに関わる三人は、(単純化した表現だが)近代的な個人の原理こそひきこもりに対処する道だと言っていると理解できると思う。ひきこもりとは、個人の尊厳を脅かすような文化的背景のもとで発生しやすい現象であり、したがって、それを改善するには、近代の学び直しが必要ということになる。
三人に共通するのは、個人として生きるということを実践において学ぶためのプログラムをそれぞれ独自にもっているということだ。そして、それを実行するにあたっては、前回(10月20日)紹介したような「ていねいなお付き合い」が欠かせない。
もしも「ていねいなお付き合い」が改善のために必須だとすれば、ひきこもりの背景には、日本文化の何らかの特性ばかりでなく、「待つ」ことのできない現代社会の性急さも関わっているのだろう。安心していられる場所が、自室しかないから、そこにひきこもるしかない。
こういう社会の変化を嘆くことは、誰にでもできる簡単なことだろう。重要なことは、それに具体的にどう取り組むかである。
ひきこもりという社会的な病理が見られるにも関わらず、それを自分の問題として考えている学者がどれだけいるのか、とジーレンジガーは問いかける。これが、待つことのできない社会で、待つことのできない課題であるというのは、何という皮肉だろうか。