紀州

中上健次紀州 木の国・根の国物語』角川文庫、改版2009年(1980年)


本書は、朝日ジャーナルに1977年から78年にかけて連載された、中上健次としては異例のルポルタージュ風作品である。
中上健次は1946年和歌山県新宮市生まれ、1992年に46歳で没した。1976年、『岬』で芥川賞を受賞したのは、彼が29歳のときのこと。
私が『岬』を読んだのは、90年代はじめのまだ20代の時のことだったと思う。そのイメージはいまもなお鮮明に生き続けているが、しかし、中上の作品をずっと丹念に読んできたわけではない。『枯木灘』、『鳳仙花』を読んだあと、『地の果て至上の時』は、2年ほどかけて読み終えた。文体を味わうだけでも、処理しきれぬものを感じ、そして、読むための時間を失った。
今回は、久しぶりの中上作品の読書となる。
きっかけは、前回この日記(10月29日)でとりあげた「ひきこもりの国」日本の原像の探究、とひとまずは言える。

「「水の行」の事件は、この国の誰にでも起こることだ。そう思った。この「水の行」を、例えばこの紀伊半島をへめぐる旅の途中で行き会うだろう差別、被差別という言葉に置き換えてみると、この「水の行」の事件は、新宮という土地のみならず、紀伊半島という半島の象徴にもなる気がする。いや、日本という国の象徴でもある。そのKという女性を知っていたからかもしれないが、穢れている、と人を打ちすえる者を差別者とするなら、差別者は美しい、と思う。この日本において、差別とは美意識の事でもあったはずだ。」(20頁)

「水の行」の事件とは、「何かの新興宗教に入っていた女が、男と、男の母、弟、妹を巻き込み、食う物も食わず、水を飲み、穢れを追い出す、と体を竹ほうきやものさしでぶちあったという宗教にからんだ事件」(19頁)のことで、それで妹が死んだという。
「差別者は美しい」という言葉の意味は、中上を深く知っているわけではないので、簡単には解釈できない。しかし、それを理解する手がかりは、もう一つの日本の象徴に関する次のような記述の中にあると思う。

「この伊勢で居た間中、私が考えつづけ、自分がまるで写真機のフィルムでもあるように感光しようと思ったのは、日本的自然の粋でもある神道天皇の事だった。いや、ここでは、乱暴に言葉を使って、右翼と言ってみる。伊勢市にはいり、模造花をたくさんつけて走り廻るバスやタレ幕のことごとくが神社に関する事ばかりだったのを見て、私は突飛な発想かも知れぬが、この日本の小説家のすべての根は、右翼の感情にもとづいていると思ったのだった。現実政治や団体としての「右翼」ではなく、そのまま何の手も加えないなら文化の統(すめ)らぎであるという天皇に収斂されてしまう感性の事である。」(187頁)

ここで「右翼」と言われているものは、啓蒙思想に対するロマン主義的心情と理解して、大きく外れてはいないだろう、と思う。
私たちは何者なのか。ロマン主義者にとって、啓蒙思想が満足のいくような仕方でこたえようとしないこの問いが、伝統や文化なるものに、衝撃力を供給する。
衝撃力をもってわれわれに臨む伝統や文化は、その中に差別の構造を含んでいる。

三島由紀夫と言えばわかり易すぎる。武田泰淳、生きている敬愛する作家を思いつくと、深沢七郎。『風流夢譚』を書く深沢氏に一種幻視としての右翼を見るというのは、私が偏向しすぎているかもしれないが、たとえばここで検証するいとまもなしに言うと、屁のように生まれ屁のように死ぬ人物らは、この天皇というものがある故に「屁のように」という形容が成り立つのではないだろうか。そしていまひとつ、ここに、差別、被差別という回路をつないでみる。あるいは被差別は差別者を差別する、というテーゼをつなげてみる。ということは私が言う右翼の感性は、日本的自然の粋である天皇こそが差別者であり同時に被差別者だということを知った者の言葉の働きである。いやここでは、私は自分を右翼的感性の持ち主である、と思ったと言えば済む事かもしれない。」(188頁)

もちろん、中上は三島とは異なる。

「草は草である。そう思い、草の本質は、物ではなく、草という名づけられた言葉ではないか、と思う。・・言葉を統治するとは「天皇」という、神人の働きであるなら、草を草と名づけるまま呼び書き記すことは、「天皇」による統括(シンタクス)、統治の下にある事でもある。では「天皇」のシンタクスを離れて、草とは何なのだろう。そう考えながらも、私に、てやんでえ、という無頼が片方ある。草は草だ。だがしかし、それは逃げる事でしかない。・・もし私が「天皇」の言葉による統治を拒むなら、この書き記された厖大なコトノハの国の言葉ではなく、別の、異貌の言葉を持ってこなければならない。」(193頁)

このような言葉の可能性を、現実の中に認めながらも中上は、自らが天皇のシンタクス、つまり「書くことの毒、書き言葉の毒」に「侵されすぎている」(194頁)ことに絶句する。

「「天皇」を廃絶する方法は、この日本において一つもない。」(196頁)

しかし、中上は、「天皇」をいま一つ生み出すことで、既存の「天皇」を無化する方法はあると思う、という。

「集約された文化において、被差別者は差別するという事を免れているのは、被差別者と、闇と光を同時に見る不可能な視力を持った神人(「天皇」)のみであろうが、それなら、「天皇」を無化する事は被差別者に可能である。」(196頁)

この、もう一つの「天皇」を生み出す神話的場が、紀州である。
中上は、それを「明るい闇の国家」(297頁)と呼んで、本書を結ぶ。自身、紀州被差別部落に生まれた中上の「政治思想」がここにある。