近代日本と仏教

末木文美士『近代日本と仏教』トランスビュー、2004年


末木文美士氏は、1949年生まれ、東京大学大学院人文科学研究科を経て、現在は同研究科教授。仏教学、日本思想史を専門とする。多数の著作があり、この日記でも、『解体する言葉と世界』を紹介したことがある(2008年8月23日)。
仏教研究者の文章の中でも末木氏の文章は明快さに特徴がある。特に本書は、仏教を仏教学の中でのみ考えるのではなく、近代や、日本、アジアなど、歴史的な切り口から論じられているためか、その印象が強い。
ここでは、日本近代の思想的課題と仏教理解の関係について簡単に紹介する。

「日本の近代を特徴づけるのは(というよりも、アジアの近代化は具体的にはさまざまな相違を持ちつつも、いずれも似た軌跡を描くことになるわけだが)、江戸時代に始まる独自の近代への方向づけが、必ずしもそのままストレートにいかなかった点である。明治期に西欧文化流入するようになると、近代化が一気に加速されるとともに、それは常に西欧化とセットにして考えられることになった。さらに、十九世紀末になると、当時の西欧がすでに古典的市民社会の崩壊期にさしかかっていたことを反映して、近代主義と同時にポスト近代主義が導入されることになった点も看過できない。かの悪名高い「近代の超克」論は、じつはもう明治期から用意されていた課題であった。
こうして、日本の近代は複雑な様相を呈することになった。そこでは前近代と近代とポスト近代が併存し、近代化を語るとき、同時に前近代の残存を認めつつ、かつポスト近代を語らなければならず、その三重性を担って思想が動いてゆく。」(6頁)

この三重性の中で、問題の焦点を構成するのが、「個」と「個を超えるもの」の関係であった。

「・・重要なことは、日本における個の確立の過程が、つねにもう一方で個を超え出る何ものかの探求とセットになってきたことである。デカルトのコギトからカントの理性批判に至るまで、徹頭徹尾超越的なものを排して、「個」の論理と倫理を求め続けた強靭さは、そこには見られない。「個」の確立は、「個」の確立として十分に論理的な帰結に至る前に、はやくもその行き詰まりが問題にされ、「個」を超えた何ものかに「個」の救いが求められ、あるいはそこに逃避してゆくのである。そこに、近代がポスト近代と同時に進行してゆく日本の場合の特徴がある。」(7頁)

「個」の確立と「個を超えたもの」との探求。
この二つはどのような形で現れたのか。

「日本の近代思想には、この「個を超えるもの」はどのような形で現われるのであろうか。「個を超えるもの」は、実態は多くの場合、前近代的な発想の流入である。だが、それは前近代的とみなされず、むしろ近代的な「個」を超えるポスト近代的なものとして自覚的に捉え直され、再編される。それと同時に、そこに反西欧主義、ナショナリズムが投影される。近代=個の確立=西欧化という等式に対して、ポスト近代(=前近代)=個を超えるもの=日本(東洋)というもう一方の等式が仮構されるのである。」(11頁)

この、「個を超えるもの」=日本という等式は、現代でもなお繰り返し表明されている言説でもある。
近代仏教もまた、この文脈の中に置かれた。

「・・一方で「個」の確立という近代の課題を果たしつつ、同時に「個を超えるもの」を与えてくれる論理は何か。西欧的近代と同等の役割を果たしつつ、かつそれを超えうる日本の論理、東洋の論理は何か。
そこで浮かび上がってきたのが仏教であった。神道は理論としてはあまりに脆弱であり、また政治的な天皇崇拝を超えられない。儒教は前近代の封建的ヒエラルヒーとの連続性があまりに強い。その中で、伝統的な前近代の思想で、しかも近代的批判に耐えうるだけのものに変形可能、解釈可能な唯一のものが仏教であった。近代の仏教は、まさに日本の近代思想に課せられた三つの課題、前近代的・伝統的であるとともに、近代的であり、同時にポスト近代的であるという三重性を担いうるものとして登場するのである。」(12頁)

このような帰趨は、例えば和辻哲郎の仏教論でも確認される。

「・・すなわち[和辻は一九三七年発表された「普遍的道徳と国民的道徳」において]仏教の「無我」の立場を「個人なき平等無差別、絶対的なる自他不二」と理解し・・、「仏教における普遍的道徳の実現が、その最大のスケールに於てはただ国民としての全体性に於てのみ実現せられた」・・と結論するのである。ここでは、原始仏教解釈に示された鋭利な論法は見られず、あまりに安易な結論と言わなければならない。仏教の「空」「無我」がやすやすと「国家」「国民」に結びついていく─ここにもまた、和辻のみならず、近代日本の仏教解釈の陥ったひとつの罠が潜んでいるといわなければならない。」(97頁)

こうした批判は、歴史の後知恵によって安易になされるべきことではない。しかし、歴史や伝統を踏まえて思考を先に進めていくためには、必ず通らなければならない道だろう。
時代の風潮のなかで、こうした発言はもう聞き飽きたと葬られかねない危惧を感じるからこそ、耳を傾けたい、と思う。