脱貧困の経済学

飯田泰之雨宮処凛『脱貧困の経済学』自由国民社、2009年、9月10日発行


昨日(11月10日)、「個人」と「個人を超えるもの」についてとりあげた。これは、日本近代思想史という歴史的過去の問題なのではなくて、現在の社会の問題でもある。そのことを、若い世代の発言から引用したい。
二人の略歴を奥付の著者紹介から引用する。

飯田泰之氏は1975年、東京生まれ。東京大学大学院経済学研究科を経て、現在、駒沢大学経済学部准教授。内閣府参議院財務省等での客員を歴任。
雨宮処凛氏は、1975年、北海道生まれ。98年に右翼団体に入会するものの、2年度に脱会。その半生を綴った『生き地獄天国』(太田出版)で作家デビューを果たす。

まずは飯田氏が挙げる事実をいくつか紹介しよう。

「飯田:「財源」とさえ言えば[雨宮が]返答に窮するだろうと思っているのでしょうね。それに対しては有効な反論があります。
裕福な人から貧乏な人へ「富」を移動して不平等を下げるのが「再分配」なんですが、日本は「再分配する前」、つまり単純な収入の不平等と、どこかからお金をとってどこかに渡した「再分配の後」の不平等度がほとんど変わらない、という変な国なんです。どこの国でも、ふつうは不平等を改善するために再分配をやっているのに。
でも、日本の財政が動かす額は、GDP比でいうとアメリカよりも全然多いんですよ。イギリスよりやや低いくらい。この予算を振り替えるだけで、財源なんかなくたって、けっこうな問題が解決すると僕は思うんです。」(59-60頁)

財源がないという言い分は、すでに持っている側の人の言い分であるということ。

「飯田:・・「なぜこんなに貧富の差が広がったんだすか」と問われたら、僕はいつも「金持ちを減税して貧乏人に増税しているんだから当たり前です」と言います。
雨宮:財源のことを持ち出す、というのは「お国の財政が危ないのにそんなことができるか」という文脈なんでしょうね。「そんな夢みたいな話、ケッ」ってことです。
飯田:しかも彼らはメディア戦略が圧倒的にうまく、みんなすぐに生活保護の話をしますよね。はっきりとは言わないけど「生活保護社会保障のせいで財政が苦しい」と匂わせる。受給者が増えてるとか、ね。
でもそんなことよりも、いちばん大きいのは金持ちを減税していることなんです。」(92頁)

メディアが、社会の現実から遠ざかる観念をつくりだす。
後の引用にも出てくるが、テレビで経済についてコメントするのは、大手の金融機関のシンクタンクに務めるエコノミストたち。金持ち相手に商売をする彼らは、金持ち減税を歓迎こそすれ、それを批判するということは難しい立場にある人々だ。

「飯田:・・・自己責任論にはむずかしい部分があって、「もっと努力していたら、あなたの人生はもっとよくなりましたよ」というのは間違いではない。だけれども、イス取りゲームのイスの数自体が足りないのは、僕らの責任でもなんでもない。・・・・
さらに、いまの日本の再分配は若者からとっている。そこから取って莫大な人口の60代に配り始めたら、再分配によってさらに不平等度が上がってしまう。」(112頁)

このように、いかにも理不尽なことがつづいているのに、なぜ日本は変わらないのか。
問題の中心的な理由を、飯田氏は「世間」に求める。

「雨宮:貧乏人には自己責任を押しつけて、俺たちの税金を怠けた人間に使うな、そういうことですよね。
飯田:僕が思っているのは、雨宮さんにとって右翼の頃からずっと敵であるのは、いわゆる日本的な「世間」なんじゃないかと。・・・・
・・・・
飯田:自由競争はよくない、さりとて貧しい人を助けるのもよくない。これは「世間に後ろ指をさされない生き方をしている人は守るべきで、後ろ指をさされるような奴は自己責任、ということかと思います。
こういう日本的な空気とでもいうべきもの。それがいちばん恐いんです。」(106-107頁)

この「世間」なるものの処置が難しいのは、「世間」の眼を、貧しい方へ追い立てられている側も内面化しているからだ。

「雨宮:・・・日本の場合は、失業して家賃を滞納したら家を追い出される。それはまあしょうがないんじゃないか、と世間の空気が容認している。その段階で、つまりホームレスの初期で自殺する人がすごく多い印象を受けますね。
・・・・
飯田:経済不安になってこんなに自殺が増える理由のひとつが、また話を戻してしまうですけど、「世間に顔向けができない」ということなのかな、と思います。
生活保護の受給資格がある人で、実際に受給している率はだいたい20%。最近ちょっと上がって、23〜4%とも言われています。受給しない理由の多くは、生活保護を受けると「あっち側」の人になってしまうから、なのではないでしょうか。
日本には強固な「世間様」というのがあって、そのなかにいる人どうしは競争するべきじゃない。でも世間様から出てしまった人はもう関係のない人である─この不思議な排除の力が強いと思いますね。」(133-134頁)

もちろん、このような日本社会を反対から見れば、「世間」の中にある人には優しい社会、という側面もある。しかし問題は、そうした「世間」の優しさが、多くの若者の仕事を奪うことによって成り立っているということだ。
ところが、そういう社会の現実は人々の視野には入ってこない。

「雨宮:世間の側が野宿者を「あの人たちは関係ないから」と見るように、自分とはまったくかけ離れた生活をする人たちがいる、とお互いに見合っている世界。
飯田:まさにそうです。すでに徴候は表れはじめていて、PISAというテストで、日本は5つに分けた層の一番下でとくに成績が落ちている。さすがに不況を20年続けただけはあるなと思います。」(153頁)

若者の「非常識」や学生の「学力低下」を嘆く前に、社会の変化を知っておくべきなのだろう。ところが、とりわけ問題なのは、現実に力をもっている人々(社会の指導的な立場に立つ人々)が、社会的な位置関係や自己の成功体験のために、ものがみえていないということだ。

「飯田:・・エコノミストでもそういうこと[あなた方の貧困は未来永劫つづきます、我慢することを覚えてください]を言う人はけっこう多い。それは彼らの主要なお客さんが、そこそこお金を持っている人だからなんです。証券系エコノミストはさらにそうで、クライアントは機関投資家、大金持ち、都市銀行や財団の運用担当者といったところ。だから「金持ち増税」なんていうと、仕事が来なくなってしまう。
でもやっぱり、団塊の世代の「学生時代は貧しかった」というのとは、いまの貧しさとは全然意味がちがう。学生運動でほとんど学校なんか行ってなくても正社員になれた人たちですから、学生時代くらい貧乏でいいじゃないか、と[彼らならば]思いますよ(笑)。
雨宮:成り上がりの自慢話、ですよね。」(188-189頁)

私たちの社会のおかしさは、若者にスキルがないとか、英語がしゃべれないとか、そういうことではなくて、社会を指導する層が「世間」の常識を越えた現実を見る眼をもっていないことではないか。
このように、私たちの「個」は、いとも簡単に「個を超えたもの」としての「世間」に収斂し、世間の外にいる人の現実に目を閉ざす。
「個」と「個を超えたもの」という思想的課題(11月10日の日記を参照)──「個」を「個を超えたもの」としての「世間」や「国家」に同調させるのではなく、「個」を失わないような仕方で、「個」と「個を超えたもの」との関係性を深化させてゆくこと──は、「世間」の常識を越えて現実を直視する眼(貧困問題を解決するためにも必要とされている眼)を獲得するという現実的課題と、不可分の関係にある、と思う。

追記:この種の問題に関心のある人は、2008年12月25日の日記もご参照ください。