近代による超克

ハルトゥーニアン『近代による超克─戦間期日本の歴史・文化・共同体』梅森直之訳、岩波書店、2007年


だいぶ日にちが経ってしまったが、前回(11月11日)同様、「個人」と「個人を超えるもの」について。
日本思想に関するこの書物を読むと、自分自身にもいろいろと当てはまることがあり、考えさせられる。例えば、次のような箇所。

アヴァンギャルドといえば、歴史の蔑視や軽蔑を通常連想するが、過去、とりわけ前資本主義的な過去は、モダニストが物象化の廃墟に対抗して試みる再表現のための修辞の貯蔵庫となったのである。レイモンド・ウィリアムスが近代に反対するモダニストと呼んだこれらの人々は、逆説的なかたちで、歴史的な表象のなかに、日常的なモダンライフの疎外の力に対抗する避難所を求め、広い意味での芸術と文化に、市場と政治的な世界における評価の変動に影響をうけない絶対的な価値を割り当てようとした。日本においてモダニズムは、資本主義の文化・・とモダンライフの登場に抵抗することを試みた。」(上巻、20-21頁)

過去は、眼前には存在しないものを眼前にあるかのように想像させる象徴によって成り立つ。だから、歴史は、実在しないものを実在するかのようにする試み象徴的な試み、とも言えるだろう。
アヴァンギャルドモダニズムも、このような象徴的な試みを担った。
ところで、ボードリヤールの『象徴交換と死』は、このような動きを、近代において不可能になった象徴交換の再現の試みとして読むことを示唆する。

「近代の社会形成体においては、社会を組織する形式としての象徴交換はもう存在しない。とはいえ、象徴界は、死がとりつくように近代社会にとりついている。象徴界が社会形式をもはやとりしまらないからこそ、近代社会は象徴界の強迫観念しか知らず、象徴界への要求もたえず価値法則によってさえぎられてしまう。そしてマルクス以降のある種の革命の観念はこの価値法則を通りぬける道をきりひらこうと模索してきたが、その観念も久しい以前から法則による革命にまいもどってしまった。」(『象徴交換と死』今村仁司塚原史訳、ちくま学芸文庫、11頁)

私たちは、貨幣を媒介とした「交換」によって、生活を成り立たせている。この「交換」は使用価値を求めて行われる「等価交換」だ。近代社会は、貨幣を媒介とした等価交換のシステムが覆うようになった世界と言える。
しかし、近代以前は、必ずしも使用価値にもとづかない、儀礼的な交換が存在した(例えば、トロブリアンド諸島のクラ交易)。フランスの人類学者モースはそれを、「贈与交換」と呼んだが、ボードリヤールはそれを「象徴交換」と呼ぶ。
不勉強なので間違っているかもしれないが、両者の言葉の違いはおそらく、モースがそれを前近代社会のものとしたのに対して、ボードリヤールがそれの近代的亡霊の形態を問題としたところによるのだろう。ボードリヤールによれば、上の引用にもあるように、象徴界は近代社会に「とりついている」のである。
近代日本の思想家の多くは、資本主義の進行に抗して、近代社会に「とりついた」象徴界の読み解きを試みた。柳田国男折口信夫が代表例だ。ハルトゥーニアンは次のように述べる。

「柳田は、一九三五年以降、初期の農政に関するテクストとは異なり、現存する実践としての民衆の生活に介入することをやめ、民衆の生活を現前させる方向に移行した。それには、人々を「民衆」に、社会を自然に同一化するような、主体性の概念を打ち出すことが含まれていた。それはまた、ひとつの想像体を守っていくことがどれほど重要であるかを明らかにするものであった。その想像の中で主体は、歴史の外にある無時間的な社会・自然的生産秩序において、関係と風俗を再生産していくとされたのである。柳田は、このような計画を実現するために、長い時間にあたって民衆によって生み出されてきた物語を集めるための旅に出た。」(下巻、161-162頁)

この旅の中で、柳田が描いたものは何か。
それは、死者と生者の織りなす、ひとつの象徴世界(「想像体」)である。しかも、その象徴世界が、国家と結びついている点に、ハルトゥーニアンは注意を促す。

「場所とは、人が生きることを義務づけられているところであり・・風俗を生み出し循環的で変わることのない日常生活を構成する無時間的な実践を繰り返すところであり、また、人が死に祖先となるところであった。この場所は、もともと、農村に根ざすものであったが、それはついに日本全体を名指すものとなった。」(下巻、162頁)

ハルトゥーニアンは、「郷土を、国家によって固定された境界から切り離す」ことができたなら、と考える。そうしたら、国家に対する持続的な挑戦たり得たろう、と。
近代国民国家は、資本主義を導入し、等価交換の世界の整備を進める。もしもそれだけであったら、郷土が国家にこれほどまでに編入はされなかっただろう。
日本の近代国家の特質は、国家の真ん中に象徴交換の世界を残し、郷土と国家を接続した点にある、といえるのではないだろうか。