生きる意味

上田紀行『生きる意味』岩波新書、2005年


あっという間に12月。相変わらずののんびり更新です。
この間、私は風邪をひいて少し寝込むときもありましたが、皆さんどうかくれぐれも気をつけてください。

「私たちがいま直面しているのは「生きる意味の不況」である。
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経済的不況が危機の原因だと言う人は多い。しかし、私たちの多くは既に気づいている。契機が回復すればすべてが解決するのだろうか。問題の本質はもっと深いところにあるのではないか。私たちをこれまで支えてきた確かなものがいまや崩壊しつつあるのではないか。」(i頁)

冒頭に掲げた著作の「はじめに」に書かれた文章。私も共感する。

「私は、一九九五年に刊行した『宗教クライシス』以来、現代日本人の空しさの核心は、自分がどこまでも交換可能であるという意識からくる、「かけがえのなさの喪失」だということを訴え続けてきた。『宗教クライシス』では、その前年に起きた「オウム真理教事件」を受け、一見豊かで何の不足もなく見える若者たちがあのような事件を引き起こしてしまう背景にあるのは、若者たちに広がる「空しさ」であり、そうした「かけがえのなさの喪失」は、若者だけに限らず日本全体に広がっており、右肩上がり経済成長の利得によってその「空しさ」の構造は覆い隠されてきたが、いまや日本全体がそこに直面させられていると、問題を提起した。」(34頁)

「空しさ」の構造は、例えば、次のような仕方であらわになる。

「一生勤められると思っていた会社からある日突然リストラされる。「お前のような人間はいくらでもいるから、別にお前でなくてもいいのだ」と言われるのである。そしてそのときに私たちは、それまで会社にとっても仲間にとっても「かけがえのない存在」であると信じていた自分の存在が、どこまでも交換可能なひとつの部分でしかなかったという事実に直面するのである。」(35頁)

このようなことは、しかし、どこの国にもあることではないか。それを何故、大事として取り上げなければならないのか。
それは、日本の社会システムとその中を生きる日本人の自我構造の特異性のためである。
「一生勤められる」ような会社に入ることを目指すのは、単純化していえば、「世間の目」で評価されるため。「世間の目」に沿って生きるということは、世間の目にかなわぬ自己を「透明化」することでもあったのに、そうまでして得た職をも失うとしたら、この人に残るものは何もないことになる。
著者は、このような日本人の自我構造を、半世紀以上前にアメリカの文化人類学ルース・ベネディクトが『菊と刀』で「恥の文化」として分析をしていたものであるとして、ベネディクトから次の言葉を引用する。

「「日本人の生活において恥が再考の地位を占めているということは、恥を深刻に感じる部族または国民がすべてそうであるように、各人が自己の行動に対する世評に気をくばるということを意味する。彼はただ他人がどういう判断を下すであろうか、ということを推測しさえすればよいのであって、その他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める。みんなが同じ規則に従ってゲームを行い、お互いに支持しあっているときには、日本人は快活にやすやすと行動することができる。」」(37-38頁)

このような「恥の文化」というシステムに資本主義的な効率性や合理性が重なるところ、日本的な形態の「生きる意味」からの疎外が生じる。

「・・現代の日本において<個>の確立を疎外しているのは、実は前近代性だけではないのであって、<個>の確立を誘導しているように一見見える近代のパラダイムこそが、奇妙なことに<個>の自発性、<個>が<個>であることを疎外しているのである。
つまり、そのシステムは日本の伝統的な「世間体」や「恥」のシステムに、近代の効率性の「人の目」に権威を持たせていくシステムに、効率性、合目的性のパラダイムが奇妙な具合に接合され、重層化されたシステムなのである。
世間は効率性を求めている。世間はあなたに「意図」を抱いており、その「意図」が効率的に遂行されることを期待している。自分が存在する場には既に「意図」や「目的」があり、その目的に添って行動すればそこで認められるが、それに反する面を出せば排除される。・・「世間から後ろ指をさされないように、効率的に生きなさい」これがこれまでの日本社会を覆ってきた意識に他ならない。」(47-48頁)

これは、日本のシステムをある種の「重層性」において捉える見方と言えるだろう。ところで日本文化の特質を「重層性」として捉えた哲学者としては、前回(11月24日)紹介した『近代による超克』の中でも論じられている、和辻哲郎がいる。

「日本文化においては、層位を異にするさまざまなものが決してその生くべき権利を失っているのではない。超克せられたものをも超克せられたものとして生かして行くのが日本文化のひとつの顕著な特性である。」(和辻哲郎『続日本精神史研究』昭和10年、『和辻哲郎全集』第四巻、314頁)

「超克せられたもの」と超克せるものとの「層位を異にする」重層性(これを上田に置き換えて言えば、「超克せられたもの」=世間体や恥の文化、超克せるもの=近代的な効率的システム)に日本文化の特質をみる和辻は、興味深いことに、ベネディクトの『菊と刀』に対して辛辣である。

「従ってもし著者[ベネディクト]が、「日本の軍人の考え方について」とか「日本の捕虜の考え方について」とかいうような、範囲の限られた日本人についての考察を示されたのであったならば、それは学問的にも価値があったかも知れません。しかしそれでもって「日本人の考え方」とか「日本文化の型」とかを明らかにするということになりますと、そういう部分的な事実が全体に対してどういう関係に立っているかをよほどはっきりとつかんでいなくてはならないのです。しかるに著者は、局部的な事実において直ちに全体の性格を見ているのであります。」(和辻哲郎菊と刀について」昭和24年、『和辻哲郎全集』第三巻、356-357頁)

和辻は、ベネディクトの描いた日本は、日本の伝統でも何でもない、という。
ところが上田は、それが今も日本の社会の特質であり続けているという。
両者ともに正しいとすれば、生きる意味を疎外する日本社会のメカニズムは、戦前・戦中に成立し、それが今なお継続しているのだと言えるかもしれない。
そして、もしそうだとすれば、今もなお私たちは、戦争の時代を生きていると言えるのではないか。
戦争ならば、虫けらのように無意味に死んでいくように見える命も、勝利のためと意味づけられるかもしれない。しかし、何のために勝利すればよいのかさえわからぬ戦いを生きる私たちの「かけがえのなさ」は、何によって手に入れられるのだろうか。
著者は、それを「意味創造者としての「私」」に求める。
「内的成長」や「我がままとワガママ」の違いなど、著者の言葉は、今を生きるための示唆に富んでいる。