人としてあること

坂部恵和辻哲郎 異文化共生の形』岩波現代文庫、2000年(原、1986年)


第二章の「人としてあること」を紹介する。
冒頭、著者は和辻哲郎の「面とペルソナ」という一文の引用からはじめる。この和辻のエセーは、仮面と人格の関係を主題とした文章である。
personaとは、もともと劇に用いる「面」を意味した。これが、劇の「役割」を意味するようになり、劇中の「人物」を意味するようになる。これが劇を離れて人間生活に転用され、途中を端折るが、社会の中での行為の主体としての「人格」を意味するようになる。
仮面が人格を意味するようになる。
普通、仮面という言葉で私たちは、本当の自分ではないものを意味する。人格という言葉で、本当の自分を意味する。
その二つが、しかし、結びついてしまう不思議。この不思議を、著者は「人」の不思議と言い換える。そして、和辻もこの「人」の不思議を論じている。
以下、著者による和辻『人間の学としての倫理学』からの引用。

「しかしこの人という言葉も精密に見ればすでにanthropos やhomoと異なった意味を担っている。それは「人」及び特に「ひと」が、おのれに対するものとしての「他」を意味するという点である。「ひと」の物を取るというのはanthroposの物を取ることではなくして「他人」の所有物を盗むことであり、「われひとともに」という場合には我れとMenschとが並べられているのではなく、自他ともにということが意味せられる。・・・が、さらに他人という意味は不定的に世人という意味にまでひろげられる。「ひとはいう」とはman sagtと同じく世人はいうの意である。かかる用法においては「ひと」はすでに世間の意味にまで近づいている。」(70頁)

この日記でもここ数回(12月1日、11月11日など)、「世間」を取り上げてきたが、その際、「世間」については否定的に言及した。しかし、和辻は「世間」というものと「ひと」というものの深いつながりを示唆する。「世間」は単純には否定できぬものであることを教える。

「地獄中、餓鬼中、人間、天上の五界、あるいは阿修羅を加えて六界という仏教の輪廻観にいう衆生の経めぐる世界ないし境域が、漢訳経典でしばしば地獄・餓鬼・畜生・人間・天上というように略して書かれ、ここから、元来「世間」「よのなか」を意味した「人間」が「餓鬼」「畜生」に対する「人」の意を示すものと見誤られ、こうした偶然の事情が手伝って、「人間」が同時に「人」を意味するという日本独特の転用が生じた。しかし、この転用は、偶然事に媒介されたとはいえ、じつは、「ひと」の語の用法に示されている事象の理解に裏打ちされており、その意味では必然の成行きにほかならなかった。」(71-72頁)

世間という意味の「人間」が「ひと」を意味するようになる必然とは何か。

「すなわち、「他者に対するわれ自身が同様に「ひと」であるということ」、逆にまた、「われにとっての他者がまたそれ自身「われ」であること」の理解を含みつつ、「自、他、世人等の意味を含蓄しつつ、すでに世間という意味をさえも示唆」している「ひと」ということばの含蓄のうちに、「人間」を「ひと」の意味に転用する素地はすでに充分用意されていた。」(72頁)

以上の和辻の議論を紹介した上で、この和辻の「人間」理解が、先に引用した仮面=人格の議論とつながる所以を、著者は次のように述べる。

「「ひと」であることは、おのずから、「自、他、世人等の意味を含蓄」するだろう。わたしが「ひと」ないし「人間」という二重構造ないし多重構造を内にはらんだ一つの構造体としてあることは、こうして、まさに、わたしが一個の「仮面(ペルソナ)」として─幾重にも重なった「仮面」として─あることを意味するにほかならない。わたしが、「よのなか」における「役割」の表現としての「顔」「顔面」であることもまた、他者からすればわれもまた一個の「ひと」、つまり見られるものとしての顔であり、逆にわれから見られる顔としての他者がまたそれ自身「われ」であり、わたしの顔を見返す一個の見るものであることの了解を含む。」(72-73頁)

「ひと」であることとは、一方では「人格」としてあること、つまり世間から外れた私自身であることを意味するが、他方では「仮面」としてあること、つまり世間の「役割」を担った「顔」であることを意味する。
前者の「ひと」の人格的側面を、著者は決して雄々しい主体としては表現しない。

「「ひと」としてあること、「ペルソナ」としてあることは・・一面で、ひとびとないしは「よのなか」へのみずからの帰属をいうにほかならないと同時に、半面、また、わたしが、つねに他処者(ひと)として、いわば根源的な疎外態ないし脱-自態においてあること、平たくいえば、ひととしての哀しみや不安においてあることをも意味する。」(73頁)

この「哀しみや不安」というところに、著者の和辻解釈の面目があるように思う。著者によれば、和辻自身は、これに気づいてはいたが、突きつめることはなかった。

「こうしたいわば宇宙的交換とひととしてあることの根源的偶然性について、和辻は、西田[幾多郎]やあるいは『偶然性の問題』の九鬼周造ほどにもつきつめて考えることがなかった。」(85頁)

宇宙的交換にひらかれ根源的偶然性にさらされた「ひと」を和辻がつきつめることができなかった理由を、著者は、和辻が「存在」をもっぱら「人間」の観点からとらえた点にもとめている。
この一連の叙述、やや難解だが、人としてあることの急所をついた叙述だと思う。

なお、著者坂部恵の著作としては、2008年9月4日、6日に『かたり』という本を取り上げたことがあるので、関心のある人はご参照ください。