人間形成にとって共同体とは何か─その2

大震災に遭われた皆様に、謹んでお見舞いを申し上げます。
そして今、被曝の不安にある故郷の皆様に、重ねてお見舞い申し上げます。
どうか被害が最小限に留まることを心より祈っております。

それにしても、一連の震災報道において明らかになりつつある、この国の二面性を、冷静に振り返ってみたい。
一つは、司令塔のずさんさ。(がんばっているとは思うのだが、しかし事ここにいたっては、やはりそう言わねばならぬと思う。)
そしてもう一つは、略奪行為やパニックの起きない、海外メディアから賞賛される一般国民の態度。(報道されないところで何かが起こっているのかもしれないが、しかし大きくは間違っていないだろう。)

この国の基本にあるのは、前回紹介した岡田敬司京都大学教授)『人間形成にとって共同体とは何か』(ミネルヴァ書房、2009年)の次の言葉にあるような、共同体なのだろう。

「それは一言で言うならば、共同体は根底において互恵、互助の原理で成り立っており、リーダーが必要とされるにしてもそれは支配型ではなく調整型だということである。指導者は超越者であってはならず、共同体そのもののみが超越的なのである。」(99頁)

今さら繰り返す必要のないようなことかもしれないが、互恵・互助つまり「お互い様」と言い合って苦労を担い合える共同体の強み。
であればこそ、リーダーの力の及ぶ範囲も「お互い様」の範囲にとどまってしまい、共同体を超えた社会の共通利益に敏感になりにくいという弱み。

上に紹介した本は、学校共同体、学級共同体を、自律的人間形成の場として機能させるための考察をしているのだが、その問題意識は、日本社会の強みを活用しながらその弱みを克服するための戦略としても、的を射ていると思う。
ところで、そこで著者が必要だと指摘しているのが、「認知葛藤的かかわり」である。

「認知葛藤的かかわりは、学校共同体、学級共同体が世間的原世界を超えていく、あるいは改編していくときに必要なものである。それは原世界とそれに対応した子どもの原人格を揺るがしても、ある意味で危機に瀕することがあっても、学校、学級を、伝えられた原世界から、自分たちが了解した、納得した、協議の末、改変改作した、真の自分たちの共同体にすることを促す。」(100頁)

すこし高度すぎる要求のような気もするが、この震災と原発事故があぶり出した日本社会の問題を克服するには、本書が唱えるような学校共同体の批判的討議空間への改革は不可欠だろう。
と同時に、学校ではなく、むしろ企業や政府においてもまた、そのような言論の受け入れられる余地を広げていくことがどうしても必要ではないだろうか。
福島原発地震災害に対する危険性は専門家によって予測され、政治家によって議会でも取り上げられていた。
しかし、その言論はまじめに検討されることがなかった。今回の出来事が人災と呼ばれる所以である。
危険な現場で働いている人のことを思えば、今さらこんなことを言っている自分は、安全なところで後出しジャンケンでものを言っているだけの恥ずべき存在だと思う。
しかしながら、恥を忍んで、教育されるべきは、学校よりもむしろ別にあるのではないか、ということははっきり言っておきたい、と思う。