社会とは何か

故郷が福島であることもあり、福島第一原子力発電所の危機が気になってならない。
震災・原発事故情報を集めようと、はじめてツィッターにも登録し、各所から情報を手に入れるようにしている。

原発ムラ」と呼ばれる、電力会社、研究者、官僚、政治家の利害共同体の問題性が、いたるところで指摘されている。
また、電力会社のスポンサーシップのために、マスメディアが「原発ムラ」の問題点を批判できなかったことも指摘されている。

電力会社や御用学者や所轄官庁に対して、私自身、苦々しい憤りが心の中にあふれてくるが、そうした思いの表出は控えることにしよう。
悲しいことだが、「原発ムラ」とは全く逆の、反体制的なコミュニティにおいても、「原発ムラ」と同じような構造(決まった文法でしか発言が許されない構造)は存在しうる。
大切なことは、体制側の問題点を暴露・指弾してルサンチマンを晴らすことではなく、「ムラ」の問題とその可能性を冷静に見ておくことだと思う。

人類学者の竹沢尚一郎氏(国立民族学博物館教授)は『社会とは何か』(中公新書、2010年)の中で、コミュニティと公共圏の関係について、水俣病患者の運動の事例から、次のように述べる。

「コミュニティとは、生活の共同に根ざすがゆえに強固なつながりをもつ人間の結合である。反面、それはそのゆえに、外部に対しては閉鎖的な性格を帯びざるをえない。しかし、それが支援の運動体や、その活動を記録しようとする創作者たちがかたちづくる公共圏に結びついたとき、患者たちの小さなコミュニティは内部においてはその性格をそのままに維持しながら、外部の社会へとつながっていくことができたのである。」(196頁)

公共圏への架け橋となったのは、「サークル村」を主宰した谷川雁の、次のような思想である。

「われわれの内部は分裂している。その枝の延長上には日本の前衛と大衆の分裂がある。それは論理と感性、意識と下意識という風に上から下への片道通信で処理される性質の分裂ではない。意識の高さがしばしば意識の軽さにほかならず、低さが重さに比例するような相関関係があるのだ。[略]前衛と原点の結合、ここに回路を建設するものこそ工作者ではないか。中間性に苦しむ現在のサークルその他の成員もまたその中間性におのれの地獄を見るならば、その位置から工作者の有力な一端をになうだろう。」(189頁、谷川雁『原点が存在する』1976年、181-182頁)

原発ムラ」と、谷川の「サークル村」とでは存在する場もその論理も大きく異なる。

原発ムラ」は、民衆を取り込むために、巨額の費用を使ってメディアを動員し、原発の安全性を信じさせる「工作者」である。
これは、上から下への「片道通信」による「工作」であり、「原発ムラ」の人々の「意識の高さ」は、そのまま反対者を冷笑する「意識の低さ」に通じる。
ここには、社会の分裂があり、分裂は神話(安全神話)によって隠蔽される。

竹沢氏によれば、谷川の「サークル村」が目指したものは、これとは対照的なものだった。

「この文章[上に引用した文章]が示すように、『サークル村』がめざした共同性は、近代と前近代のはざまにおかれた日本農村の共同体的性格を反映したそれであると同時に、そのなかに徹底した討議をもち込むことで、新しく創造されるべき共同性であった。
谷川や『サークル村』の試みは、しばしば共同体やコミューンのことばで形容されるが、それは正しくない。メンバー間の自由な討議と絶えざる自己批判・他者批判によってのみ存在するような人間の結合を、共同体とは呼べないのである。・・・それがめざしていたのはむしろ「公共圏」、さまざまな成員が平等の資格で討議に参加する空間としての「公共圏」であったと理解すべきであろう。」(189-190頁)

竹沢は、このような谷川の精神が、「サークル村」に言葉の力をあたえたという。
その代表的な表現者が、『苦海浄土』の石牟礼道子であることは言うまでもない。

「石牟礼は・・・生活実感のなかに埋め込まれていた「私」の意識を、谷川の理論のナイフが切り裂き、社会的存在者の発言へと転じさせたというのである。」(192頁)

「社会的存在者」という言葉がキーワードだ。
それは、社会的分裂を神話によって隠蔽するのではなく、論理によって神話的一体性を解体し、その上で、表現へと昇華する。

原発ムラ」の表現は異なる。
テレビで繰り返される、例えば「ただちに影響はない」という発言は、事実を隠蔽しているように響く。科学的には正確であっても、今後起こりうる可能性を隠蔽しているように感じられるからだ。

もちろん、その反対に、不安をあおるだけの言説というのもあり得るだろう。不安を収めるためには、科学的な評価が必要であるのは言うまでもない。しかし、科学的な評価が、すでに起こった事実に関する評価(残念なことにその評価さえ事実かどうか定かでないようだ。本日夜「放射能1000万倍は誤り」と報道されている—追記)にとどまり、今後起こりうる事態に対する発言が奇妙に封じられている(と感じられる)ことが、不安を引き起こす。

専門家としての発言の「正しさ」が、社会的存在者としての発言の重さに通じていかないのは、この時間の枠組みによるのではないだろうか。
社会が未来を先取りするのに対し、科学は事実の確実性を未来の確実性へと振り替えることによって、それに対応する。その振り替えには「想定」という神話がつきまとうが、しかし、いったんできあがったムラは、この時間の枠組みでしかものを考えられない。なぜなら、それこそがムラを成り立たせる論理だから。
私たちの「ムラ」の問題、その可能性とその克服を考えるための議論の要所はこの辺りにあるような気がする。