人間形成にとって共同体とは何か—その1

前回、「幻想、他者、移行対象を豊かにする仕組みづくり」のための理論の紹介を予告した。

が、取り上げた著作(樫村愛子ネオリベラリズム精神分析』光文社、2007年)をよく読んでみると、そのための具体的な記述は少ない。
ちょっと、勘違いをしていたようだ。
そこで、「幻想、他者、移行対象」を豊かにするための理論的方向を、同じ著作の第三章「なぜ恒常性が必要なのか」から学びつつ、それを現代日本に応用するためのヒントを、岡田敬司『人間形成にとって共同体とは何か』(ミネルヴァ書房、2009年)の中に探ってみよう。

樫村は、「幻想、他者、移行対象」を通じた人間の変容が実現するには、「恒常性」が必要であるとする。「恒常性」とは何か。

「恒常性とは、幼児期の他者の全能のイメージを保存しながらも、その担保のもとで現実認識を可能にさせる機能である。恒常性が奪われている統合失調症者が他者や世界を信じられず、絶えず不安で目の前の現実に拘束されているように、恒常性が可能とする想像性は、人々の言語や創造性を可能にするものである。」(114頁)

ラカン派の著者の議論は、精神分析に通じていないとわかりにくいかもしれない。
しかし、事柄自体は単純である。

現実は移ろいゆく。その移ろいゆく現実を、現実の中にいる私たちは、移ろいゆくものとして認識することができる。
このような認識が可能であるのは、人間が現実の世界だけに生きているのではなく、現実と距離をもつフィクションの世界の中に生きているからだ。
このフィクションは、幼児期の他者イメージの受容から始まる。やがてそれは、「遊び」を通して、他者と交流可能なイメージへ、つまり現実と統合されつつ、しかし現実そのものではないイメージへと成長していく。
このイメージの成長は、期待する他者(はじめは親、それが学校の先生に、やがて歴史の偉人に、などというケースはほとんどないかもしれないが・・・)が移りゆく「転移」の過程でもある。
転移によって豊かに成長する、このイメージ空間の恒常性が、人に様々な言葉を身につけることを可能とする。また、それらの言葉によってこの世界はさらに豊かになっていく。

逆に、もしもこの世界が不安定であったらどうなるか。
人間は変化する現実にばかりとらわれてしまい、安心して世界の中に住まうことはできなくなる。そこでは、人間の精神の成熟や、人と人とのつながりは育ちにくい。

それでは、現代は恒常性にとってどのような時代か。

「近代教育が前提としていた啓蒙路線とその背後にあった近代知の権威が批判され解体されたために、教育制度を支えていた「転移(他者に対する期待)」が今機能していない。」(180頁)
「現在の日本では、転移の装置は枯渇している。教員は十分勉強する暇がなく、ノルウェーでのように修士までいって学問を積み重ねていく余裕はなく、子どもに転移を誘発する知的な刺激や人格的な刺激を与えられない。
また、日本の知は輸入学問であって、社会の中で知に対する根本的な敬意がない。そして自分と家族の物質的幸福といったものと結びついていた学校の大義も失われつつある。」(183頁)

人間の精神や人と人とのつながりが可能になるのは、世界の恒常性によってである。
しかし、その恒常性を支える装置の一つである学校は痩せ衰え、恒常性を支えるための言語的伝統は育つどころか、むしろないがしろにされていく・・・。

しかし、嘆いているだけではすまない。
現状を改善するための方策を、岡田敬司『人間形成にとって共同体とは何か』から探ってみよう。
本書もまた、樫村の著作と同様、ネオリベラリズムによる改革に対する危機意識を執筆の動機としている。
「学校教育の市場化とそれに並行する私事化、そして一見それに逆行するかのような国家統制」(1頁)の強化。教育におけるこのような流れに対して、著者は「共同体という中間物に根拠を持つ教育・学習」を対置する。
それは、例えば次のように叙述される。

「自由選択の能力を獲得するには、恣意的、偶然的にコミュニケーション・メディア=専門家を選択するのではなく、子ども時代に人間にとって不可欠と思われるコミュニケーション・メディア、そしてそれに担われた価値と多重的に、そしてできればもれなく出会っておく必要がある。その出会いを全ての領域の専門家を媒介にして行うのは無理がある。親や教師は非専門的にではあるが、子どもを多様な価値に出会わせる必要があり、そのコミュニケーション・メディアであるべきである。未分化ではあるが多元的なコミュニケーションを行う相手として不可欠なのである。」(92-93頁)

ところが、現今の改革は、心理のカウンセラーや教科の専門家を導入する方向へ進んでいる。社会のシステムに適合的な形に学校が作り替えられ、「親も子ども教師ももはやそれら[各々の専門分化したコミュニケーション・メディア]の多元的システムの動作する環境に過ぎな」(92頁)くなろうとしている。つまり、親や子どもは教育サービスの消費者でしかないのだ。
このような学校のシステム分化=サービス化の動向に抗して、著者は学校を共同体として組み立て直すことを主張する。
著者は、ルネ・ジラールやゲーレンの議論を引照して、共同体の原罪に言及することを忘れない。しかし著者は、それらの議論を超えて、共同体を構築する社会的装置の可能性に迫る。その方向性は次のようなものである。

「西欧型社会が採用した法律と国家暴力装置の存在を前提にした上で、このような精神面での弱点[連帯感を喚起できないこと]が補償されるような社会装置(とりわけ教育装置)が可能かどうか考えることである。いわば西欧型社会の暴力連鎖遮断の即効性と、未開社会の連帯意識の醸成による精神的予防性とを兼ね備えた装置、あるいは少なくとも互いの欠点を補い合えるような装置を考えることである。」(195頁)

樫村が論じた「恒常性」もまた、連帯意識と法的装置の安定によって、はじめて可能であったと言えるだろう。これが揺らぐとき、人間形成を促す装置自体が機能不全を起こしていく。

現今、子どもの成長より、大人の成長のことがもっと大きな問題だと感じる。この20年ばかりの社会や政治の大変動は、恒常性を破壊し、大人の人格性の鍛錬の場をも放逐した。
この危機に立ち向かうはずの政治家もまた総崩れの様相を示しているが、それもこの大波の影響によるとは言えないだろうか・・・。