精神病理学における<歴史不在> その3

渡辺哲夫『二〇世紀精神病理学史 病者の光学で見る二〇世紀思想史の一局面』ちくま学芸文庫,2005年


さらに本書から,見逃しえぬ思想史上の事例を二つ,引いておきたい。
思想や哲学の専門家などよりも,それ以外の専門をしっかりと身に付けた人の方が,しっかりとした思想に対する鑑識眼をもっていることがある。
本書で渡辺氏が示すハイデガーベンヤミンについての記述には,同様のものが感じられる。

二十世紀最大の哲学者と言われるハイデガーの,悪名高きフライブルク大学総長就任講演「ドイツの大学の自己主張」(1933年)──これによってハイデガーナチスへの共感・協力を表明する──の引用に続いて,渡辺氏は次のように続ける。

「しかし,私は,ここに<われわれは病んでしまった>という真剣かつ痛切な自覚をも見ざるをえない。<力としての歴史>が衰弱し,<生命体の群れ>は混乱のなかで「ひと」の群れへと「頽落」・・してゆく。「西欧の箍が緩んでしまっている」との言い回しは,この哲学者にとっても<歴史>は過去の出来事のリアルな連続などではなく,われわれの<いま・ここ>の<生命体・ビオス>を輝かしく造形してくれる「現」の構成力のものにほかならない,ということを強く示唆していよう。彼にとっても<力としての歴史>は,ドイツ民族の<生命>の「箍」あるいは「枠組み」という力なのである。」(213-214頁)

著者は,哲学者のナチズムへの荷担を単に非難するのではなく,そこに現代の病理を見る。それは,昨日紹介した,クレペリンにおいても同様の著者の態度である。
では,ハイデガーが示している病理とは何か。

「・・やはりこの哲学者は<歴史不在>に抗することは<力としての歴史>に身を委ね<力としての歴史>に所有され貫かれることでもあると感知している。・・彼はつねに現存在を現存在たらしめている「現」の根拠を考えていたのであり,その根拠をこそ「存在」と,あるいは「存在」の力と見た。」(214-215頁)

この指摘は実に鋭いと思う。
「歴史不在」とは,昨日引用した「力としての歴史」の不在である。この「力としての歴史」の不在を,著者は分裂病者の特徴であるとみなすだけでなく,時代の大きな傾向ともみる。そして,ハイデガー哲学にもその刻印があるというのである。
「歴史不在」を問題とする著者だが,ハイデガー哲学に与するわけではない。

「この不均衡の「精神」[ハイデガー]が二〇世紀の思想に決定的な衝撃を与えた事実のみが重要である。事態は二〇世紀精神がこの悪漢的哲学者を待ち望んでいたかのように進んだ。とりわけ,分裂病精神病理学を論ずるにあたって,この存在史家の影響を免れた者がほとんどいなかった事実はたいへんに興味深い。分裂病と二〇世紀精神とのあいだにある「適応性」(ヤスパース)を肌で感じる必要が理解されよう。」(214-217頁)

ハイデガー哲学は,二〇世紀の課題を典型的に示すものだというのである。

取り上げたいもう一つは,ベンヤミンに関する記述である。

ヴァルター・ベンヤミンは,ハイデガーヒトラーよりも三年遅れてベルリンにてユダヤ人富豪の家に生まれた。一九四〇年,ヒトラーの軍隊に追われ,パリからマルセイユに逃げるも船に乗れず,徒歩でピレネー山脈を越えてスペインに入ろうとするが拒否され,強制送還を示唆されて九月二六日,服毒自殺してその生涯を閉じている。」(221頁)

渡辺氏は,ベンヤミンの著名な「歴史の概念について」を引用した後で,次のように述べる。

ベンヤミンは,「歴史の天使」であり,かつまた「瓦礫の山」である。彼自身の名が「カタストローフ」だと言ってもよい。なぜ,ベンヤミンという名のカタストローフがおとずれたか。<歴史>が「死者たち」と「破壊されたもの」にかたちを与える持続する<力>を失ってしまったからである。<力>が神のごとく十分に強いのであれば「死者たちを目覚めさせ,破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせる」こともできよう。しかし,われわれの<いま・ここ>を造形し「生き生きとした現在」にしてくれる力はもうない。われわれは「廃墟」にとり残される。・・」(225頁)

ベンヤミンは「歴史不在」になった現実を見据え,歴史の「廃墟」にたたずんでいる。
しかし,彼は,単に歴史不在を嘆いているのではない。歴史を形態化する力を待ち望んでいる。ベンヤミンが待望したものを,著者は,アーレントの文章から引用する。

「こうした思考は現在に触発されながら,過去から引き離して自分自身のまわりに集めることのできる「思想の断片」をもってはじめて機能する。・・・こうした思考を導くものは,たとえ生存は荒廃した時代の支配を受けるとしても,不朽の過程は同時に結晶の過程であるとする信念,かつては生きていたものも沈み,溶け去っていく海の底深く,あるものは「海神の力によって」,自然の力にも犯されることなく新たな形に結晶して生き残ると言う信念である。こうして生き残ったものは,いつの日か海底に降りてきて生あるものの世界へと運び上げてくれる真珠採りだけを待ち望むのであり,「思想の断片」も「豊かで不思議なもの」も,そしておそらくは不朽の根源現象でさえもその中に数え入れられるであろう」(アーレント『暗い時代の人々』阿部斉訳,河出書房新社,247頁)。(229-230頁)

以上のようにアーレントの言葉を引用した上で,著者は次のように続ける。

「「海神の力」は<力としての歴史>の美しいメタファーである。この力が,世俗的な<個的生命体の群れ>のありとあらゆる混乱を浄化し「結晶」を創り出す。ベンヤミンは「まとまった過去」という幻影を破壊する革命家であり,同時に,<歴史>が「結晶の過程」であるとの信念をもつ収集家,「真珠採り」である。「伝統」の破壊は彼にとって<想起>の前提であった。このパラドクスは受難としての<想起>という孤独な思想史的身振りを理解するにあたって銘記されなければならない。」(230頁)

ベンヤミンの仕事は,歴史不在を前提とした<想起>である。すべては断片化している,しかし,その断片から新たな結晶が生成することを期待する,そのような営みである。
それは,「歴史の力」に身を委ねるのではなく,「歴史不在」の荒涼たる瓦礫から,新たなものの到来を期待する。
ハイデガーベンヤミンの,同じ問題状況に際しての,この道行きの違いはきわめて興味深い。