精神病理学における<歴史不在>

渡辺哲夫『二〇世紀精神病理学史 病者の光学で見る二〇世紀思想史の一局面』ちくま学芸文庫,2005年


個人的なことになるが,博士論文でディルタイという哲学者・歴史家を論じた。この思想家を研究することは,たやすい仕事ではなく,いまでも出版された博士論文を読み返したいとは思わない。
そうした苦々しさとは別に,まったく畑違いの人がディルタイの面白さを指摘すると,そうだ,彼はもっと評価されなければならないのだ,と思うのは,何故なのだろう。
面白い思想家のその意義を十分に説き明かしきれない無力に苦々しく思いつつ,それをどのように説き明かせるのかと,いまでもどこかで考えているからか。
いずれにせよ,ディルタイという哲学者のことをまったく知らない人も,次の文章を読むと,ディルタイという人物が格闘した問題の雰囲気を感じとることができるのではないだろうか。もっとも本書はディルタイを論じるものではなく,それについてはわずかしかふれていない。
本書の課題は,精神病理学の失敗の意味を問いながら,人間の深部を捉える方向性をさぐることにある。
渡辺哲夫氏は,1949年生まれの医学博士。精神病理学を専攻し,病院長や医学部教授を歴任している。

ヤスパースにとって<歴史家>ディルタイは眼中になく,「自然をわれわれは説明し,精神生活をわれわれは了解する」というテーゼのみを精神病理学にとって有用として採用しただけだと言わなければならない。ヤスパースにとって法則定立的方法は「自然的領域」にのみ親和的であって,「歴史的領域」とは無縁である。同じく法則定立的方法と言っても,「歴史的領域」においてこれを駆使したブルクハルトのそれと「歴史的領域」自体を事実上切り捨ててしまったヤスパースのそれとは峻別されなければならない。この意味で精神病理学は<歴史不在>の「了解」,という奇妙な方法を,一九一三年以降,手にする結果となったのである。」(30頁)

この記述は,歴史的背景についての知識がないと,やや難しいかもしれない。
ディルタイは,自然的世界は説明され,精神的世界は了解される,として,自然科学と精神科学の方法を区別した。ヤスパースは,ディルタイのこの方法論(の言葉だけ)を受け入れ,精神的世界の「了解」をめざした。しかしその「了解」とは,

「目の前にいる精神病者の心的世界を「静的」に,現在形の時制でのみ感情移入し記述すること,目の前にいる現在形の精神のかたちを「了解可能」「了解不能」「説明可能」と分類すること」(31頁)

でしかなかった。こうして精神病理学から「歴史」が放逐されたと著者は述べるのである。

「「自然的領域」の「説明」に対する「歴史的領域」の「了解」の優位性を論証せんとし,自然科学の妥当性の根拠を精神科学において見出そうとしていたディルタイに対し,これはヤスパースのあからさまな反逆ないし錯誤である。私はここにヤスパースにしみついた医学的思考法とその限界を見る。これはヤスパースの若さゆえではない。・・ヤスパースにおいて始まったのは,極言すれば,忘却を前提としての精神現象の整理整頓であった。厳密な学としての精神病理学は,潜在的にうごめき続ける<生命>と<歴史(言語)>の相互浸透的なダイナミズム,巻きつきあい,相互限定の様相を切り捨て,「生」の表出の意味を背景から限定している各自的歴史性を,さらには<力としての歴史>のアクチュアリティを視野の外に置く操作から誕生した。」(32-33頁)

著者は,このような<歴史不在>の精神病理学の問題性を指摘し,それを二〇世紀精神史の兆候とみる。その考察の射程はながく,精神病理学とはひとまず関係のない私のような研究をも覆う。
著者の上記の言葉を理解するために,そしてここ数日引用するテーマに関することとの関連づけのために,もう少し付け足しておこう。

「歴史の概念にも・・言わば存在論的差異を,すなわち,歴史論的差異あるいは時間論的差異を認めるべきである。それが可能であり必要である,と私は思う。すなわち,「もの,事物,個別的事件,人物」のリアルな連鎖として抽象的に観念される「歴史」と,「現実・現在」がそこに依拠する根拠としてのアクチュアルな<力としての歴史>とを分けて考えることは必要であると考える。」(45-46頁)

存在論的差異とは,哲学者ハイデガーの言葉で,存在(在る)と存在者(在るもの)との差異を言う。
これを受けて渡辺のいう歴史における存在論的差異とは,存在者にあたるものが,「リアルな連鎖として抽象的に観念される「歴史」」であり,存在にあたるものが,「アクチュアルな<力としての歴史>」である。

「リアルな「歴史」は言わば「死物連鎖世界」である。この「死物連鎖世界」を賦活し「活物」としての「活き活きとした現在」にするのがアクチュアルな<力としての歴史>あるいは<歴史の力>である。このアクチュアルな<力としての歴史>こそが「現存在」がそれに依拠している根拠,言うならば,「現存在」の直下にて,「現存在」のまとまりを与えているアクチュアルな“歴史”なのである。分裂病者を襲う深刻な離人症は,このアクチュアルな<力としての歴史>に依拠しえなくなったリアルなだけの「歴史」,「死物世界」の連続しか体験できない事態である。」(46頁)

ここで著者は,歴史と精神病理の関係という難題について触れている。
私に,その成否の判別はできないが,しかし病者が経験する「リアルなだけの「歴史」」というのは,のちの日記で取り上げる予定の自閉症者の「象徴なき世界」というものに通じるもののように思う。